■ 三岸好太郎 『海と射光』 (2001.4.30)

強い夏の日差し、輪郭のはっきりとした影。浜に横たわる官能的なヴィーナスの姿態。遠くに海の水平線、大きく広がる青空。ヴィーナスを護衛するがごとく、周辺に散らばる様々な貝たち。ひとつとして同じ姿の貝はない。大きさもバラバラである。乾いたあっけらかんとした色彩。作者の意図したイメージは何か?現実を超越した白昼夢の世界か。

芥川喜好(*)によれば。官能の残骸でしかない。まばゆい静寂だけがある。そして、モダニズムの詩を書くように描かれた絵、詩の空間と等価な絵の空間。彼自身の内部に詩と絵とが常に変換可能なものとしてイメージ豊かに存在していた、と言う。
(*) 『「名画再読」美術館』芥川喜好著、小学館、2001/2

三岸好太郎の画風は大きく3期に分かれるのではないか。岸田劉生の影響が強く感じられる初期、ルソーを思わせる第2期。そして、超現実主義ともいえる晩年。<海と射光>は最晩年の傑作である。

三岸好太郎がこの世にあったのは31年。画家としての生涯は大正末から昭和はじめにかけてのわずか十余年にすぎない。この短い期間に画風は大きく何度も変貌している。司馬遼太郎によれば、「めまぐるしく旋回する行動と精神によって、ひとの人生の何倍かを生きた」とある。

三岸好太郎は1903年 札幌に生まれた。中学を卒業し18歳で上京。郵便局のスタンプ係など様々な職で生計をたて、絵画活動を始める。1923年(19歳)で第1回春陽会展に<檸檬持てる少女>が入選。赤い服の少女が素朴な筆致で描かれている。1924年(21歳)には吉田節子と結婚。この年の<赤い肩かけの婦人像>は節子夫人を描いたもの。ここにも岸田劉生の色調を感じる。

1926年(23歳)には中国へ旅行。上海を中心に、蘇州、杭州を訪ねる。このときの西欧植民都市風な上海の街の風物に漂うエキゾティスムに強く影響されたようである。さらに画風が変わった。テーマも、マリオネットや、このあと何度も道化が登場するようになる。暗い色彩とダイナミックな筆遣いである。どこか道化の表情が淋しい。ルオーに私淑していたとも言われる。第2期か。

晩年1933年(30歳)には新しい画法にも挑戦。代表作<オーケストラ>は、黒の下塗りとホワイトを重ね、上をひっかいて下の白い線を浮き出させる手法。モノクロームの効果が素晴らしい。オーケストラの楽器の重なった響きが聞こえる。リズミックでもある。さらに超現実主義ともいえる世界に入り込む。蝶々、貝殻がテーマになる。<海と射光>は最晩年の1934年(31歳)の3月に完成したものである。7月には名古屋で胃潰瘍による吐血から死去。


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