■ 『炎の画家 三岸節子』 (1999.12.26)



吉武輝子著『炎の画家 三岸節子』を読む。9年をかけた労作、406ページの大冊である。生きた、描いた、愛した。――三岸節子の墓碑銘にはこの言葉をおいてないと痛感させられた、とある。生き抜く情熱を与えてくれる本である。

扉をめくって先頭には《自画像》が収められている。まっすぐ見つめるまなざし。どこか悲しさを感じる。鮮やかな色彩、画面の中心には着物の赤――炎の色だろうか。1925年の作品で三岸節子は20歳、好太郎との結婚直後である。

三岸節子は1905年(明治38年)愛知県に生まれた。そして当時新進画家として第一歩を踏み出したばかりの三岸好太郎と結婚したのは19歳のとき。突然の胃潰瘍の出血によって好太郎が31歳で急逝し、節子が取り残されたのは29歳。好太郎の死を聞いて「助かった。これで私は画家として生き延びられる」と心の中で叫んだのだ。好太郎との結婚は10年間であった。既に3人の子どもをもうけていた。

「夫好太郎は天才、妻の私は努力の人」。当時、注目されていたとはいえ絵描きとして生計を立て、3人の子どもを育て、女流画家として新しい道を切り拓くには阿修羅のごとく生きるしかなかった。

「わたしがただ一人愛した男」と節子が語るのは菅野圭介。出会ったのは、1938(昭和13)年、彼の風景画に引きつけられたのである。いずれも画家の39歳の夫と、43歳の妻の新生活のスタートは、「別居結婚」という話題をマスコミに提供した。

1950年代には、洋画界の第一人者といった画格を確立した。50年1月の読売新聞主催・現代美術自選代表作15人展に節子は女流画家としてただ一人招待を受け、《室内》など10点を出品している。ちなみに他の14人の画家は安井曾太郎、林武、岡鹿之助、猪熊弦一郎、小磯良平、福沢一郎、岡本太郎、児島善三郎、野口弥太郎、中山巍、梅原龍三郎、木下孝則、東郷青児、岡田謙三である。

1954年、節子はフランスに渡った。自分なりに人生の区切りをつけ、孤高の志を貫く道への第一歩を踏み出したいと願っていた。1968年には南仏カーニュに定住し、ブルゴーニュの小さな村ヴェロンに農家を購入し移住。再び1984年に渡仏、1989年に帰国、84歳であった。個展とか、体調を崩したための一時帰国とかはあったが、結局フランスとの関わりは20年にもなった。

帰国後は大磯のアトリエで制作活動に取り組む。遺作は、93歳で描いた100号の大作《さいた、さいた、さくらがさいた》。「透明度の高い独自の色彩感覚」とは司馬遼太郎の言葉。鮮やかな色彩、迫力ある構図、、が特徴である。

三岸好太郎美術館が札幌に開館したのは1983年。個人名を冠した美術館としては最初のもの。散逸していた好太郎の作品を節子が買い戻し、220点を北海道に寄贈したのが元になっている。1998年11月、愛知県の尾西市に三岸節子記念美術館が完成した。入り口の正面には《自画像》が飾られている。翌1999年4月、節子は永眠した。94歳であった。


◆ 『炎の画家 三岸節子』 吉武輝子著、文藝春秋、1999/12刊


■ 山本夏彦の「室内」 (1999.8.11)


山本夏彦の『私の岩波物語』(文藝春秋、H6/5)を読み終えた。ちょっと題名からは、いかにも「岩波書店 社史」と、敬遠していたのだが、読後感としては個人日記の拡大版か。これは著者も、 「私はノンフィクション作家ではない。調べたことをえんえんと並べたくない。自分が直接また間接に経験したことでないかぎり同情がわかない。読者も同情がないものを読むのは苦痛だろう。」と書いている。社員でさえ読まないのが「社史」だ。




この本のカバー装画には三岸節子の《室内》(ヒマラヤ美術館蔵)が採られている。カバースケッチも三岸節子。
「室内」は山本夏彦が主宰する雑誌の名前でもある。因縁は深い。『私の岩波物語』は「室内」の社史でもある。

ところでもう一つ、『私の岩波物語』を読んで気がついたのだが、この本にはきちんとした50音順の索引が付いている。人名と社名が中心。先頭の[あ行]はアインシュタインから始まっている。おもわずページをくくってみると、該当は2ヶ所ある。いずれも改造社がバートランド・ラッセル等と共にアインシュタインを招いた件(大正8年)。こんなこともあったんだ。この本は後ろの索引から読み始めることを、勧めます。

ちなみに索引の項目数を勘定すると、合計619ある。ページ数で割り算すると、1.69項目/ページ。この数字は妥当なのだろうか、多いのだろうか少ないのだろうか。印象としては多い感じである。

手元の本と比べてみると、索引付きの本はなかなか少ないのだが。矢作勝美著『活字=表現・記録・伝達する』出版ニュース社(1986/12、S61年)と比べる。こちらは全項目数 511で291ページ、従って1.76項目/ページ。もちろんレイアウトも違うし、印刷ページの活字の密度も違うので乱暴な比較ではある。数字だけで判断すると、『活字』は索引の拾い出しに頑張っていることが分かる。1.6前後が索引数密度の判断基準かな。


Home


ヒマラヤ美術館こちら

絵画好きのケーキ屋の社長さんが開設した美術館。杉本健吉展示室、三岸節子作品室、近代日本洋画室の3つに分かれて展示されている。1977年3月に開設、三岸節子の最盛期の作品のほとんどを収める。

交通アクセス:JR・名鉄・近鉄・地下鉄 「名古屋」下車 5分


■ 三岸節子の訃報

H11年4月18日 三岸節子 死去と報じられた。94歳。まさに天寿を全うした感がある。三岸好太郎と過ごしたのは19歳から29歳までの10年。好太郎の死によって2人の生活は突然終わった。ときに好太郎31歳、胃潰瘍からの出血であった。節子は幼い子供3人抱えてこの先の人生を生き抜くことになった。

『花こそわが命』(求龍堂)から、三岸節子のことば
・三岸好太郎という、まことに破綻の多い、素朴であるが不敵な面魂をたくわえた天才と生活をともにした事実は、大きな代償を払って学びとった人生である。
・名古屋から「コウタロウ、シス」という電報が鷺宮の家に届いたとき「ああ、これで私が生きていかれる」と思いました。

最も印象的なのは『ヴェネチア』(1973) 運河の水の色を何層にも塗り分けている。橋の影が落ちている部分、建物を映している水面。となりの運河へと広がる道。そして、血の色とも思える鮮やかな赤のくまどりが表れる。これは何だろう。画家の心の中に見えたものとしか言いようがない。この色彩の鮮やかさは好太郎にはまったく無い。
(1999.5.22)


三岸節子記念美術館こちら

愛知県 尾西市にH10年10月、三岸節子記念美術館が開館した。生家を復元したもの。

交通アクセス:JR尾張一宮駅・名鉄 新一宮駅 から名鉄バス


戻る