■ 司馬遼太郎と三岸好太郎・三岸節子 (2009.2.7)


【三岸好太郎について】

『北海道の諸道 街道をゆく15』 司馬遼太郎、朝日文庫、1985/7


このシリーズで、石狩湾の厚田村を訪れたときの「崖と入り江」は、三岸好太郎がテーマである。
三岸好太郎の出生地は札幌であるが、本籍地は石狩国厚田郡厚田村十六番地とのこと。好太郎は生涯厚田へ行ったことがないが、本籍地であることを知っていたはずである。しかし、自筆の年譜には「石狩ルーラン十六番地に生まる」と書いているらしい。

厚田という文字や語感を好まず、母親が少女のころそこで貝拾いなどをしたであろうルーランのほうを好んでその崖を出生地にしたというのは、いかにも好太郎らしくていいと、司馬遼太郎は書いている。ルーランは、アイヌ語で崖を指すらしい。

好太郎の異父兄・子母沢寛は『新撰組始末記』が著名である。東京へ出てきた好太郎の世話を、当時新聞記者だった子母沢さんはずいぶんやいたという。名古屋で客死したときも、まっさきに駆けつけたそうだ。

大正13年に春陽会賞を受賞した「兄および彼の長女」は、好太郎が東京へ出て来て早々、背広姿の子母沢さんと赤い服を着たその長女をイスにすわらせて描いたという。この作品は、札幌の三岸好太郎美術館に収蔵されているはずである。

(2009.2.7)


『オホーツク街道 街道をゆく38』 司馬遼太郎、朝日文芸文庫、1997/1


<札幌の三日>
三岸好太郎ほど北海道の風土を象徴する芸術家はいないと私はおもっている。
31歳で夭折するまでの十年間、自分の天才性を、さまざまな様式を借りて表現した。好太郎にとって様式は貸し衣装のようなもので、様式そのものに生命はなく、借りた様式は、不必要なら容捨なくぬぎすてた。
替り身が早いというのではなかった、好太郎には、中身がある。

若い最晩年の名作は「オーケストラ」(1933年)である。キャンバスに白っぽい絵具をたっぷり塗りたくったあと、釘のようなもので、引っ掻くようにして、群像を描いた。古代の洞窟画に似ていた。

「オーケストラ」が発表された翌年に三岸好太郎は死ぬ。幾度も羽化をくりかえした蝶のような生涯だった。

かれは、その全作品でもって、大正末年から昭和初年までの日本のモダニズムの先頭を駈けぬいた。その作品には日本的風土の異質性の重みからくる澱もなく、思想的ためらいからくるひるみもなかった。快活な水泳選手の泳ぎっぷりを見るようだった。もっとも実人生のほうは破滅的だったが。

三岸好太郎は、典型的な都会派でもあった。都市を信じきっている都会っ子のように、油絵がもつ近代性と普遍性を信じきっていたかのようで、どの作品にも筆触に田舎くさい躊躇がない。
つまりは、札幌に似ている。



【三岸節子について】

『微光のなかの宇宙 私の美術観』 司馬遼太郎、中公文庫、1991/10

三岸節子の芸術
好太郎の生涯は、31歳までしかなかった。かれはそのみじかい時間のなかで、すぐれた作品をのこしたばかりでなく、めまぐるしく旋回する行動と精神によって、ひとの人生の何倍かを生きた。三岸節子は、そういう好太郎の精神と内臓の奥まで入りこんで、血や粘液にまみれたさまざまのものをつかみ出しては、昇華させ、表現した。

そのころの三岸節子には、すでにこんにちの巨大なる開花を約束するすべての天分がみられたが、しかし好太郎のように虚空に閃いてひらく華のようではなく、石の多い坂道を登る大型のいきもののように、足どりは着実でゆるやかであった。しかし夭折した天才が時間切れのために伸ばし得なかったもっとも重要な部分を、彼女の一部として継承した。
(昭和56年9月 梅田近代美術館編『三岸節子滞欧作品展』図録)


『歴史の世界から』 司馬遼太郎、中公文庫、1983/6(単行本:昭和55年11月)


司馬遼太郎は、三岸節子についてこんなことを言っている。

戦後、いくつかの三岸節子の作品を見たときの感動は、わすれられない。
当時、なみはずれて激しく大きい質と量をもった彼女の情念を包みこむには、この人の手持ちの、もしくはこの世の既存の造形技術は、小さくすぎるように思われた。ちょうど、一反風呂敷のはしばしにロープをつけて、いきのいい牛をむりやりに押し込んでいるといった感じで、その破綻した場所からはげしいなにかが噴き出していたし、むしろ私の場合、そのふしぎな気体に酔わされた。

そのころ私は、主題性が脆弱で処理技術がうまいだけの絵を無数に見ていただけに、日本にも、天性、油彩世界に適った才質がうまれ得るのだということを三岸節子の作品において思ったりした。
「三岸節子展に寄せて <未踏の境地>」 昭和55年8月 三岸節子展目録


『三岸好太郎 昭和洋画史への序章』 匠秀夫、求龍堂、平成4/8

500ページの大冊。三岸好太郎の生涯をたどるには決定版か。

<オーケストラ>等の作品は当時、三岸が熱愛した作曲家吉田隆子の案内で、近衛秀麻の指揮した新交響楽団を聴きにいったことが直接の機縁になってできたものである。







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