■『中国人と日本人』 商人と職人 (2014.9.15)





中国はすでに世界第二の経済大国として君臨している。日本の動向如何にかかわらず、これからも中国は大きく発展することは間違いないだろう。もっと中国人を知りたいと思う。本書は、出版以来、もう二十数年を経ている。あらためて読み直してみると、著者の「日本人は職人、中国人は商人」という言葉は本質をついているように思われる





日本文化の本流はフリガナ文化である、と著者はいう。日本人は、漢字を略字化してカナをつくり出した。カナは、ヤマト言葉を表現するための字として利用され、かつ漢字を読む時の音標文字として使われるようになった。ローマ字にカナをふって受け入れることが簡単にできる。英語でもドイツ語でも、フランス語でもローマ字で表現される言葉を何の苦もなく取り入れることができる。外国文化にフリガナをすることによってつくり出されたのが日本文化なのだと。

中国では、漢字が中国全体を統一へのきずなの役割を果たした。北京語と広東語や福建語は発音するとまるでチンプンカンプンの言語であるのに、字で書くと皆、同じ字になっている。だから、分裂の歴史に度々見舞われながら、漢字が中国全体を統一へ戻すきずなの役割を果たした。

メイド・イン・ジャパンの特徴は、その大半が日本人のオリジナル商品ではないということ。カメラ、腕時計、オートバイ、自動車、半導体、コンピュータ、……等々。外国から輸入したアイデアやシステムを日本人は、独創性を発揮して商品化した。すでに商品化されたものを輸入してさらに改良して、一段とすぐれたものにしてしまう。商品化の過程で、生産性を上げたり、コストを下げたり、あるいは消費者の利便を考えた改善に全力をあげる。日本人が、フリガナで外国文化を自家薬籠中のものに変える柔構造の頭脳をもっているからできたことなのだ。

日本人を職人気質の持ち主としてとらえれば、その社会の成り立ちや発展ぶりを容易に理解できる。日本人には主体性がないとか、自己主張がないとか言われるが、職人に自己主張を期待するのは無い物ねだりなのだ。政治や外交については、もともと関心がない。その代わり、自分の守備範囲内の物のつくり方やできあがった製品の完成度に関しては、仕事熱心なだけに、一家言も二家言も持っている。研究熱心でもある。人のやっていることでもこれはいいと思えば、すぐにも取り入れる。自分が工夫したことでも惜しまずに人に教えるし、会社の金儲けのために応用する。

逆に、中国人は商人的性格の持ち主としてとらえれば、わかりやすい。中国人には商才があるから、すぐれた職人のつくった商品を右から左に売ることによって利潤をあげることができる。自分らで一級品をつくることはできないかもしれないが、それに似たような商品をうんと安いコストで、大量に生産することならできる。

中国人は根っからの商人。だから儲かるとわかれば、わぁっと集まって有り金をごっそり注ぎ込んで盛大に生産をする。儲からなくなった途端に店をたたむように工場も閉めてしまう。中国人は採算を重視し、コスト・ダウンに努力する。日本人は物をつくるに際して品質を重んじ、付加価値に重点を置く。

中国人は頭の回転が早い。金儲けというところに焦点を合わせれば、根が商人であるだけに、日本人はとても太刀打ちができない。そういう連中を自由勝手に泳がせておけば、金持ちはうんと金持ちになり、貧乏人はその下積みになって、貧富の差がつくだろう。ふだんの中国人は、自分らの利己主義をむき出しにはしない。あくまで大人(たいじん)であり、政治や社会事業に対しても関心を示す。しかし、心の中で、関心を示す順位はちゃんときまっていて、利己主義に徹し、これほど家族中心に物を考える国民は他に類例を見ない。

チーム・ワークという点では、中国人は日本人のようにはとても行動できないが、もし一対一で個人能力のテストをしたら、多分中国人のほうがずっと上だろう。とりわけ中国人はきびしい環境を生き抜いてきたので、生き残り作戦ということになったら、日本人よりずっとしぶとい。貧乏にたえる忍耐力とか、手間ひまをいとわない勤労意欲とか、環境の変化に対する適応力とかいうことになったら、日本人は中国人の比ではないという。


◆ 『中国人と日本人』 邱永漢、中公文庫、1996/2
    (原著は1993/3中央公論社より刊行)

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