■ 『父の縁側、私の書斎』 檀ふみの語る「父の台所」 (2004.3.22)



「戦後、日本人が失ったのは、縁側である」、これは森繁久弥の言葉らしい。縁側そのものよりも、むしろ縁側の文化、つまり人の心にある縁側を惜しだのだろうと、檀ふみは思う。縁側は、外に向かって、ゆったり、温かく開いていると。

「父の台所」との感が深い。父とは、あの『火宅の人』、壇一雄である。取材旅行の函館のホテルで宿泊者名簿に、「壇ふみの父」と書いて、ホテルのフロントをびっくりさせたそうだ。壇一雄には『壇流クッキング』なる料理本もあるほどの料理好きである。本書は、檀ふみが家にまつわる父の思い出を語ったもの。なかでも<死んだ親があとに遺すもの>、これは珠玉の一編だ。

壇一雄は、ものを自分で作るのが好きだったせいか、「できあい」品に凝るということは、あまりなかった。台所用品、食器の類が好きだった。自分の作った料理を人に食べさせ、「うまい!」とほころぶ顔を見る、それが無上の喜びだったとのこと。中華鍋の柄は短く鍋と同じ素材なので、すぐに熱をもって扱いにくい。そこで、丈夫な木をピッタリの大きさに削り、鉄の柄の中に埋め込んで継ぎ足した。この中華鍋は今でもバリバリの現役で活躍しているそうだ。

父の亡くなった後、別荘に新しい台所用具を揃えるとき。檀ふみがまっさきに買ったのが、木の柄のついた中華鍋だったとのこと。父の選んだもの、父の作ったものはいまだに暮らしの中に生き続けている。そうしたものを通じて、父の魂のいくばくかが、自分の中にも息づき始めているのかもしれないと。


◆ 『父の縁側、私の書斎』 檀ふみ著、新潮社、2004/1


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