■ 『ヒトラーのウィーン』 ヒトラーはいつから怪物へと変身したのか? (2012.2.14)



ヒトラーが、若き日にウィーンで建築家(画家か)を目指していたことは、よく知られている。そのウィーン時代は、資料も少なくよく知られていないようだ。
ウィーンにおけるヒトラーの痕跡はきれいに消し去られているようでもある。


著書はしつこくヒトラーの足跡をたどり青春像をあぶり出している。あくまでもアドルフ・ヒトラーという個人に関心があるようだ。
精神病理学者が取り組んだように、ヒトラーに特定の「病状」を貼り付けることによって真相は解明されないという。
本書には等身大のヒトラーが描かれているのだが、著者の姿勢にはどこか共感すら感じる。行間に自身の体験が挟み込まれているかららしい。


ヒトラーのウィーン時代は、17歳から22歳までの5年3ヶ月にわたる。建築学に対する興味がどんどん膨らんだという。
朝早くから夜遅くまで名所から名所へと奔走したらしい。しかし、ヒトラーはウィーン造形アカデミーの受験に二度失敗する。
同郷の親友は既にアカデミーに合格し音楽家への道を歩み出していたのに。
ヒトラーは二度までも失敗したことに屈辱的な思いをいだき絶望したであろう。

ワグナーの音楽への熱狂は変わることがなかった。恐ろしく長い楽劇をずっと立ったままで鑑賞したという。
そのあいだ水を飲むだけで何も食べずにいた。
上着をクロークに預けるお金を浮かせるために真冬でもコートを着ないで行ったとか。悲壮なほどのオペラ鑑賞だ。

貧しい放浪の日々を重ね、浮浪者収容所にたどり着く。ときにはホームレスの路上生活さえ体験したようである。
ついにヒトラーは、5年超のウィーン生活に終わりをつげミュンヘンに旅立つ。ウィーンでは何も得たものはなかった。
あえて言えば、もっとも過酷な人生の学校(『わが闘争』)を卒業したことだという。将来には何の展望もなかった。
画家になる夢を完全に閉ざされ、職業に結びつくいかなる技術も身につけていない、ただの敗残者であった。

ウィーンから負け犬のように退散してミュンヘンに着いた1年後に、第1次世界大戦が勃発する。ヒトラーは銃を取り4年後に帰還する。
ここから、ヒトラーの人生は、急カーブを描いて上昇し続ける。1934年8月には総統兼宰相として全権力を掌握する。
少年時代・青年時代を通じて、まったくの落ちこぼれで、後の成功の片鱗も示さなかった男が、あっという間に最高権力者にまで上りつめる。

ヒトラーの率いるナチスドイツは、1938年3月、国境を越えオーストリア国内に入る。十万人のウィーン市民が眼を輝かせ歓喜に酔いしれ英雄の凱旋を迎入れる。
ヒトラーが新宮殿のバルコニーに現れるや否や、雷鳴のような大歓声が湧き上がった。
――ヒトラーはウィーンに勝ったのか?ウィーン凱旋から7年後に、ベルリンの地下壕でヒトラーの夢は完全に潰えたのだ。


◆ 『ヒトラーのウィーン』 中島義道、新潮社、2012/1

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