■ 『漢字と日本人』 カテーの問題とは何か (2005.7.31)




あまたの新書の中から、私見では本書をベストワンに推す。自在な語り口と主張の明確さ。そして高い見識。知的刺激にも欠けることはない。広く読み継がれるロングセラーの資格を持っている。中高生の夏休みの課題読書にもぴったりではないか。話は「カテーの問題」からスタートする。家庭か、假定か、それとも課程か。仮定ではなく假定である。

日本語は「顛倒した言語」であると著者は言う。ことばとは人が口に発し耳で聞くものであり、言語の実体は音声である。しかし日本語では、文字が言語の実体であり、耳がとらえた音声をいずれかの文字に結びつけないと意味が確定しない。音声が意味をになっていない。

コーコーという音は「高校」あるいは「孝行」という文字に結びつけてはじめて意味が確定する。その語を耳にしたとき、瞬間的にその正しい一語の文字が脳中に出現して、相手の発言をあやまりなくとらえるのである。文字を思いうかべるのにヒントになるのは、その語の出てくる文脈である。

顛倒した言語になったのは明治以後である。あたらしいことば、音を無視して文字の持つ意味だけを利用したことばがつぎつぎにつくられ、生活の場にはいりこんできたからだ。現代の社会で新聞や雑誌で見ることば、毎日もちいていることば、その大半は明治以後につくられた。現代、社会、生活、政府、官庁、会社、企業、銀行、等々。これらの字音語が主要なことばをほとんどしめることになったために、顛倒がつねにあらわれることになったのである。

そして重要なことは、日本人がそのことをすこしも意識していない、ことだと著者は言う。明治以後の日本人の言語生活のなかで漢字がどんなに重要な役割をはたしているかに気づかない。政府や知識人がくりかえし漢字の削減や全廃を主張してきたのもそのためであると。

漢字は、日本語にとってやっかいな重荷である。もともと日本語の体質にはあわない。いつまでたってもしっくりしない。しかし、日本語は、いびつのまま生きてゆくよりほか方法はない。われわれのよって立つところは過去の日本しかないのだから、とにかく過去の日本との通路を絶つようなことをしてはいけない、と著者は繰り返す。戦後の国語改革――かなづかいの変更、字体の変更、漢字の制限――がもたらした最も重大な効果は、それ以後の日本人と、過去の日本人――その生活や文化や遺産――とのあいだの通路を切断したところにあったと。

◆ 『漢字と日本人』 高島俊男著、文春新書、2001(平成13)/10


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