■ 『壊れる日本人』 柳田邦男 ケータイ・ネットの「負の遺産」 (2005.5.15)

JR福知山線で起きた大惨事。原因については様々な視点から論じられている。ここには日本人の心のあり方として、いろいろ考えるべきものが潜んでいるように感じる。

日本人は、規則・基準には従順に従う。過密なダイヤであっても、何とか守ろうと努力し、ついには実現してしまう。そして、目的と手段が逆転してしまって本来の目標が失われていることにも気づかない。なぜ速度超過までして定刻を守らなければいけないのか。基準内でありさえすれば、危険度の高い場所でもATSを設置しなくてもよいのか。鉄道会社の第一の目的は、乗客の安全輸送だったはずだ。

本書で著者・柳田邦男は、日本人の問題として、ケータイ・ネット社会の浸透専門的職業人の視野狭窄的な傾向、を挙げている。共感するところが多々ある。

若者たちはいまや総ケータイ依存症になっているという。ケータイもネットも現実の人間とのコミュニケーション手段ではあっても、電子機器が媒体だ。対人関係のコミュニケーションをこればかりに頼っていると、仮想現実の世界の感覚が優位になってしまう。四六時中、何から何まですぐにケータイで発信し、応答を待つということになると、困ったことや悩みの種を、自分でじっくりと考えて乗り越える道を探すという自律心を育てることができなくなってしまう。待つという心の持ち方ができなくなっているのだと。

社会の中心的担い手である専門的職業人が視野狭窄的になっているのではないかという。社会的な仕事の専門分化の進行によって、自分の仕事の判断が社会全体の中でどんな意味を持つかとか、当事者の立場になったらどうかといった柔軟な発想をしなくなっている。規則と慣行の中だけで物事を処理すれば事足れりと考える傾向が強いのだと。

こんな事故があった。2003年9月のブリヂストン栃木工場の火災では、防火体制の不備として、火災拡大防止のスプリンクラーの未設置が指摘された。消防法では、床面積5千平方メートル以上の施設にはスプリンクラーの設置が義務づけられているが、栃木工場では各棟を4千999平方メートル以下に設計し、スプリンクラー未設置でも法律違反には問われないようになっている。

投資効率を大きくするために、防災対策の費用を最小限に抑えようとしたのだ。その論理はしばしば大火や災害の発生によって、大失敗に終わる。法律の基準は、最低限の目安に過ぎないのに、企業は十分条件であるかのように受けとめて、ギリギリの設計をして、コストを低く抑える。安全基準の意味が逆転するのだ。
――まさにJR西日本の事例ではないか!

柳田邦男の処方箋はこうである。ケータイ・ネット依存症克服の一つのてがかりとして、あえて「非効率主義」をすすめる。「ちょっとだけ非効率な生き方」を。生身の人間に会ったり、散策や読書や絵画展や音楽会を楽しんだりするところから始めようと言う。

あいまいな領域を大事にする日本文化の意義を見直そうと言う。必要なところでは、科学技術の成果――ケータイ・ネット――を利用するが、必ずしも「効率」を重視しない。「効率」のために人間に犠牲を強いるようなことはしない。「あいまい」とは、西洋流合理主義で黒白を明確に分けなければ気がすまないという思考法から脱け出して、よくわからないところがあっても、それらを含めた全体をありのままに大事にするという意味なのだ。


◆『壊れる日本人 ケータイ・ネット依存症への告別』 柳田邦男著、新潮社、2005/3刊


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