■ 『国語教科書の思想』 道徳教育からリテラシー教育へ (2005.12.23)

いまや「ゆとり教育」は諸悪の根源として袋だたきである。それが頂点に達したのは、OECD(経済協力開発機構)が行った読解力調査 (PISA)で、日本が下位に低迷した時ではなかったか (2004/12月)。PISAとはOECDが世界41カ国の15歳の子供たちに実施した国際的な学習到達度調査の略称。著者によれば、PISAの「読解力」が求めているのは、批評精神――他人を批評し、他人とは違った意見を言う――ことだという。

たとえば、こんな問題だ。「贈り物」という奇妙な物語がまず提示される。この最後の一文は「ポーチの上には、かじられたハムが白い骨になって残っていただけだった」と結ばれている。これに関して、設問はこうだ――『「贈り物」の最後の文が、このような文で終わるのは適切だと思いますか。最後の文が物語の内容とどのように関連しているかを示して、あなたの答えを説明しなさい』。物語を批評的に読めという趣旨である。「批評」が求められると、日本の15歳はお手上げ状態になるのである。

日本の国語教育では与えられた文章を「ありがたいもの」として、徹底的に受け身の立場に立って「読解」することだけが行われてきた。能動的な読解は求められない。「道徳」や「教訓」を読み取ることが求められてきた――著者は「道徳教育」だったと断言する。世界に通用する日本人を育てるためには、国語という教科を根本的に変えなければならない。国語教育に「批評」という高度な精神活動を導入すべきだと著者は主張する。

著者は、現在の国語を2つの科目に再編せよと提案する。一つは、文章や図や表から、できる限りニュートラルな「情報」だけを読み取り、それをできる限りニュートラルに記述する能力を育て、さらにその「情報」の意味について考え、そのことに関して意見表明できる能力を育てる「リテラシー」という科目を立ち上げること。

たとえば説明文を書く力。きちんとした「説明文」を書くことの方が「感想文」を書くことよりもはるかに難しい。時系列に沿って書けばいい場合でも、何を書いて何を書かないかという判断が大切になってくる。書きたいことを全部書こうとすると、ごちゃごちゃになってしまう。それ以外の場合でも、どういう基準で書く順序を決めるのかに迷うことが多い。並べる基準のレベルをまちがえると、錯綜した文章になってしまうからだ。

もう一つは、文学的文章をできる限り「批評」的に読み、自分の「読み」をきちんと記述できるような能力を育てる「文学」という科目を立ち上げることだという。現代では「文学」は個人の好みでさまざまに読んでよいという共通認識が成り立っている。文学は誰も傷つけることなく自由に自分の意見を言うことのできる、数少ないジャンルなのであると。


◆ 『国語教科書の思想』石原千秋著、ちくま新書、2005/10月


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