■ 『何のための日本語』 われわれは日本語教育を受けてきたか (2004.11.09)

キーボード入力は「かく」ことか、これも著者のユニークな提起だ。日本語ワープロの出現以来、ローマ字で「入力」すれば漢字が「出力」される事態がうまれた。キーをたたくのが「かく」ということであるならば、漢字ではなくローマ字でかいているのだ。漢字は「でて」くるものであって「かく」ものとなった。日本語の表記の歴史のなかで突然発生した、重大な事件だと。

本書は日本語ユーザとしての永年の考えをまとめたもの。日本語にたいする新しい視点を気づかせてくれる。たとえば、われわれはまともな「日本語教育」をうけることなくおとなになって生活しているのだという。

小学校から高校まで、たしかに「国語」の授業があったが、その内容の大半は「国文学」であった。教科書をひらくと、そこには『枕草子』から志賀直哉まで、古今の文学作品がゾロゾロとならんでいた。なぜ「言語教育」が「文学教育」とくっつかなければならないのか。

「国語教育」はそもそも「実用」ということをぜんぜんかんがえていない。日本語という言語は切実な日々の生活の手段なのだ。「文学」などという悠長なものとは無関係。電車の時刻表だって薬の効能書きだって、みんな「日本語」でかかれているのに、そういう日常の言語に「国語」教育はまったく無関心である。

漢字という表記法をつかわなければ、じつは日本語はやさしいのである、という。「日本語」にとって漢字というの表記方法はまるで強力な磁場のようなもので、ほうっておくとかぎりなくそっちに吸いよせられて、なんでもかんでも漢字になってしまう。「日本語」を「にほんご」とかいても「ニホンゴ」とかいても、あるいはNihongoと表記してもさしつかえないはずだ。

意味のない漢字の「書きわけ」もやめたほうがいいという。動物が音をだすことを「なく」という動詞でしめすが、これを「泣く」「鳴く」「啼く」ときには「哭く」などとことなった漢字をあてる。つかいわけがめんどうである。「なく」というのは和語なんだからさいしょから「かな」でかいておけばよいと。

わざわざ外来語をつかうのはあんまりいい習慣ではないと。なぜ「ソフィスティケートされた」などというのか。「あかぬけした」「イキな」「気の利いた」など、いくつもみごとな和語があるのに。だいいち、和語のほうがわかりやすい。やたらにカタカナ語をつかうのはあんまりいい趣味ではない。


◆『なんのための日本語』 加藤秀俊著、中公新書、2004/10


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