■ 『日本の近代建築 (上)』 ――幕末・明治編――  (2012.6.11)




東京駅丸の内駅舎の復元工事が進んでいる。戦災で消失した屋根や駅舎の外壁を創建当時の姿にもどすのが目的。2012年10月に工事が終わるとのことだ。広く知られているように、東京駅駅舎は辰野金吾の設計である。


本書は、上・下2巻の構成。上巻は幕末・明治編をまとめている。幕末・居留地の西洋館から和洋折衷の洋館、御雇建築家による本格建築を経て、日本人建築家が誕生するまでを描く。辰野金吾はその日本人建築家の第一世代だ。



開国とともに西洋館がやってきたが、大きな流れが2つあった。地球を東回りにアジアを経て長崎・神戸・横浜へ来たもの、それに西回りにアメリカを経て北海道への流れだ。

東回りコースを、著者はヴェランダ・コロニアル建築と特徴づけている。この流れはイギリスの海外進出と結びついている。アジアにはすでに高い建築文化があり、インドでも東南アジアでも、ヴェランダ状の工夫はすでにあった。イギリスの冒険商人たちは、現地の暑さの中で快適に暮らす方法として、ヴェランダを採り入れていく。これがヨーロッパ勢力の版図拡大にしたがいアジア全域へと次第に広がる。ついには日本に行き着く。長崎、横浜や神戸の外国人居留地には山の手の丘と海岸通りにヴェランダ・コロニアル建築が並ぶ独特の光景が生まれた。

もうひとつの西回りコース。下見板コロニアルと著者は言う。横長の板を張り重ねて白系のペンキを塗るもの。札幌の時計台が代表イメージだ。イギリスの南東部かスウェーデンが起源だろう。まずイギリスの開拓民に携えられて大西洋を渡り、アメリカ北部のニューイングランド地方に運ばれる。開拓民が西へと向かうのにつれアメリカの大地に根を張り広げる。ついには大陸を横断し西海岸に行き着く。さらに西に向かって明治初期の日本に上陸した。アメリから招いた開拓顧問団の指導で新しい木造建築技術が札幌にもたらされたのだ。

日本各地には、洋風とも和風ともつかない摩訶不思議な西洋館が生まれた。各地の大工棟梁が日本に上陸したコロニアル建築との出会いの体験を無手勝流で表現したものにほかならない。全体の構成、プロポーション、車寄せの細部意匠、いずれにも「知らざるの強み」が発揮されている。松本の開智学校では、お寺のような車寄せが張り出し、エンジェルが舞い、屋根には塔が突き出している。→こちら

やがて、本格的なヨーロッパ建築の時代が始まる。工部省は日本の学生に建築の学と術を授けてくれるにふさわしい人物をイギリスに求める。明治10年、ロンドンから24歳のジョサイア・コンドルが教授としてやってくる。明治12年卒業の第1回生から19年の8回生まで、都合21人の学生が工部大学校造家学科を卒業し、日本の礎となってゆく。コンドルは日本の建築界の母と呼ばれる。

コンドルは日本に永住した。岩崎家がパトロンとして彼を庇護したため、邸宅の仕事などがある。岩崎久弥邸は和洋併置式邸宅。ヴェランダへのこだわりがあったようだ。→こちら

自立の時代をリードしたのは、コンドルに育てられた21名の工部大学校卒業生と欧米の大学に学んだ4名の留学生。藤本寿吉、妻木頼黄、片山東熊、辰野金吾、等々。彼らが日本人の第1世代の建築家となる。辰野金吾がコンドルに代わって工部大学校教授の席に就いた。そして、国家的建築プロジェクトの日本銀行の設計者に辰野金吾が選ばれた。これは日本人の第一世代の建築家が御雇外国人に代わって国家を飾る力量を蓄えたことの証となった。

第一世代の活躍はほぼ明治時代と重なる。かれらは新しい国家の生まれる経過を内側から体験した。明治の国家は自分の人生と確かな肌ざわりをもって重なる存在だったのだ。国家と時代を建築で飾るのが自分たちの任務と覚悟していた。東京駅駅舎は、大正3年、辰野金吾の作品。イギリス・コンドル派の最後の代表作である。


◆ 『日本の近代建築 (上) ―幕末・明治編―』 藤森照信、岩波新書、1993/10

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