■ 『素顔のモーツァルト』 モーツァルトの人生は楕円の軌道のようであった (2012.8.25)




モーツァルトといえば、楽聖物語の定番である。自然のままにわき出て来るかのような優雅なメロディー。数多くの天才伝説にこと欠かない。本書は、天才音楽家の包まざる姿と生きざまを、残された直接的な資料(主として手紙)から描き出したものである。刊行は1979年でいささか古い。

伝説を破壊し、モーツァルトの素顔をえぐり出したということでは、映画「アマデウス」の公開(1984年)は衝撃的であった。以来、奇矯で好色なモーツァルト像というのが市民権を得ている。このロンドン初演は1979年であり、本書の刊行時期と並ぶ。「アマデウス」と本書、それぞれの視線が重なり合うように、また別々の角度から光があたるように、ユニークなモーツァルト像が表出されるのが興味深い。

モーツァルトが新しい就職口を見つけるために、父と別れて母親と2人でザルツブルグを出たのは21歳のときだ。旅はミュンヘンからマンハイム、そしてパリへと進む。母はパリへ着いてまもなく長旅の疲れから病をえて、モーツァルトに看とられながら帰らざる人となる。

父にあててモーツァルトは優しさにあふれた長い手紙を書く。故郷にあって突然に妻の死を聞く気持ちを思いやり、苦しみをやわらげるために、父の喜びそうな話題をすべて並べてみせる。シンフォニー――交響曲第31番《パリ》――がパリでヒットしたことも。成功を待ち望む父への最高のプレゼントだったのだ。

ザルツブルクと決定的に離別し、モーツァルトはウィーンへ向かう。そこでは、スヴィーテン男爵のサロンに出入りするようになる。このサロンは当時のウィーン中の文化人や教養ある貴族たちの出入りした華やかなものであった。作家、音楽家、美術家なども常連。これを契機にモーツァルトはJ.S.バッハのとりことなる。そして音楽は大きく深化を遂げる。ハイドンへの献呈の辞で有名な6曲の弦楽四重奏曲はその最たるものだ。

モーツァルトは父の反対があったもののコンスタンツェと結婚する。コンスタンツェは美人でもなければ、音楽の才能が飛び抜けているわけでもない。しっかり者でもなかった。世に、「コンスタンツェ悪妻説」が流布しているが、著者は、生々しいモーツァルトの手紙を引用し、この説を否定している。モーツァルトがコンスタンツェを終生愛した理由は、彼女がモーツァルトにとって肉体美人であったことだと。

ウィーン時代の1783年の暮から翌年の夏まで、モーツァルトの活動は生涯のピークであった。売れっ子ピアニストとして忙しく、音楽会への出演スケジュールは目白押しであった。そんな中《フィガロの結婚》の作曲に取り組む。次から次にと溢れてくる美しい音楽は初日の客を圧倒した。しかし、その後はフィガロは必ずしも順調とはいえなかった。貴族社会の中で、反体制の素材に対する風当たりは強かったのだ。

父の死を迎えて、「モーツァルトの人生は楕円の軌道のようなものであった」と著者は言う。自分という焦点のほかに、父という焦点があった。父は教師でプロモーターで母親でそして神であった。これほどの影響を与えた人間からモーツァルトは逃げられなかった。反撥し、抵抗し独立してみても、自分の精神の軌跡は相手の影響のないところに飛び出してしまうことはなかった。

楕円の精神軌跡は、今ひとつの焦点を失うことによって、抛物線になる運命を担っていた。楕円のうちは反撥と均衡によって一定の範囲内にある軌跡も、抛物線になれば永久に無限の彼方を指向し、現実のなかには戻ってこなくなる。現実化のレオポルトを失ったモーツァルトは、これ以降、永遠の生の方向に向かって少しずつ飛び去っていくことになる。


◆『素顔のモーツァルト』 石井宏、中公文庫、昭和63(1988)/5
   (単行本:『素顔のモーツァルト』音楽之友社、昭和54(1979)/5月)

    HOME      読書ノートIndex     ≪≪ 前の読書ノートへ    次の読書ノートへ ≫≫