■ 『種の起原をもとめて』 ウォーレスはダーウィンより早かったのか (2007.8.31)



チャールズ・ダーウィンが『種の起原』を出版したのは1859年のこと。2009年には150周年を迎えることになるのか。『種の起原』の刊行を前にして、ダーウィンとアルフレッド・ウォーレスが共同発表というかたちで自然選択説を発表したのは有名な逸話である。本書はこのウォーレスの生涯を共感をもって描いている。自伝から引用した、自然選択説を発見するくだりには臨場感があふれている。

著者は、ウォーレスは自らの功績を、もう少し自慢してもよかったのではないかと言う。ウォーレスはひかえめな性格であり、一介の標本採集家が歴史に名を残すなどかなわないことと自覚していたのだろう。自分の役割はダーウィンが『種の起原』を「すぐに書いて刊行するきっかけとなったことだけ」というのが、ウォーレスの終生変わらぬ位置づけだと。

ダーウィンとウォーレスの研究の方法論には大きな違いがあるという。ダーウィンはいわば帰納法。20年も30年もの事実を積みあげていって結論をみちびくというスタイル。ウォーレスの論文には、まず大枠の法則や仮説を設定し、それに照らして個々の事実を検証していくという特徴がある。ダーウィンの方法を足し算とか代数学的とすれば、ウォーレスのは幾何学的あるいは直感的ということができる。

ダーウィンが20年もかかって苦闘していたことを、ウォーレスは1週間でやってのけた。「種の起原の理論」が完成したのは1858年2月、35歳のときだ。マラリアのひどい発作に苦しみ、毎日悪寒と発熱のために何時間も寝ていなくてはならず、考えること以外にすることがなかったときである。

ウォーレスの自伝『我が生涯』によれば、その様子はこうである。
ある日、なぜか20年前に読んだマルサスの『人口論』を思い出した。「増加の積極的な阻止」によれば、病気、事故、戦争、飢餓といった積極的阻止が、未開の人種の人口をより文明化した人々の人口より、ずっと低く抑えている。

ウォーレスはこれらの阻止原因が動物にも継続的に作用していることに気づいた。動物は人間よりずっと急速に増加するのだから、それぞれの種の個体数が抑えられるには、毎年これらの原因で死ぬ数は相当なものになるにちがいないと。

なぜあるものは死に、あるものは生きているのか?もっとも適したものが生きているのは明らかだろう。病気から逃れるのはもっとも健康なもの。敵から逃れるのは力のもっとも強いもの、敏捷なもの、あるいは賢いものである。飢餓からは、もっとも狩りのうまいもの逃れるだろう。

そのとき突然ウォーレスは、この自動的なプロセスが必然的に品種を改良することがひらめいた。世代ごとに、劣ったものが死んでいき、すぐれたものが残るだろうから――最適者の生存だ。

陸と海、気候、食物供給、あるいは敵が変化したとき、そして個体変異の量を考慮するならば、種が適応するのに必要な変化は、すべてもたらされるだろう。環境の大きな変化はつねに緩慢であり、各世代では、最適者の生存のための変化が生じるのに十分な時間があるのだから。

このようにして動物の体の構成部分は必要なとおりに変形されるはずだ。この変形のプロセスにおいて、変形しなかったものは死に絶える。このようにして明確な特徴形質とそれぞれの新種が明らかに孤立していることが説明される。

長いあいだ追いもとめてきた種の起原の問題を解く自然法則を、ついに見いだしたことをウォーレスは確信した。このウォーレスの名を歴史に残すことになった論文は「変種がもとの型から限りなく遠ざかる傾向について」。彼はこの論文を2晩で書きあげた。


◆『種の起原をもとめて ウォーレスの「マレー諸島」探検』 新妻昭夫、朝日新聞社、1997/5


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