■ 『単位の進化』 科学と技術との有機的発展のかなめ (2010.9.27)

ソ連が人類初の人工衛星を打ち上げ世界にショックを与えたのは1957年だった。このスプートニクの成功にショックを受けたアメリカが、もっとも痛切に感じたのは、計測の標準の整備不足だったという。とくに巨大な力(ロケットの推力など)の計測標準だ。


以来、アメリカは測定単位担当機関の充実に力を注ぐことになった。アポロという巨大システムを成功させたバックグランドに、計測技術の活躍があった。計測の基礎となるのが"単位"そのもの。"単位"が科学と技術との有機的発展のかなめとなるのだ。



本書のテーマは、もちろん単位の歴史。科学技術の進展と併行して"単位の進化"――いまや原子の波長で長さの単位が規定されている――があったことは間違いない。それに、著者の語り口が自在で読みやすいのが本書の魅力だ。ときおり個人的エピソード――バイロイトの水で苦戦した話とか、がはさみこまれるのが愉快。

単位は、かつては権力者の手にあった。わが国でいえば、太閤検地の例がある。これは統一的基準のもとに日本全土にわたり施行された土地制度変革である。基準のものさし(検地尺)まで整備して検地を行った。ヨーロッパでは、8世紀にシャルルマーニュ(カール大帝)が度量衡統一をくわだてている。広大な版図にあまねく一系統の度量衡をゆき渡らせようとして、標準のものさしを作り王宮に保管させたという。

そして、フランス革命をむかえる。フランスの科学者がなしとげたのは、"メートル法の創始"であった。1790年にフランスの議会でタレーラン(後に外相)が度量衡に関する動議を出したことに始まる。一番大切なのは、長さの単位を何に基づけるかということであった。科学アカデミーは、地球の周囲の長さの何分の一かをもって測定の単位を定めるとした。結局、赤道と極との間の子午線弧長の1000万分の1が選ばれた。

経緯儀などをたずさえて子午線の測量が始まった。測量区間は、バルセロナから北上し、ピレネー山脈を越えてフランスに入り、ドーバー海峡のダンケルクまで直線距離で1100キロメートルほど。この間に三角測量の観測点網を張りめぐらさなければならない。測量は1798年の夏頃にようやく終わる。実に6年半を要したという。

1867年のパリ万国博では、「度量衡・通貨委員会」が編成され、メートル法を科学・工芸・産業・商業に適用することの実益が報告・宣言された。科学論文・諸統計・郵政・教育などに専用すべきことが各国政府に勧告された。1875年には国際条約として「メートル条約」成立する。

国際メートル原器が制定されたが、すでに原器が具現する1メートルは、「子午線の長さの1000万分の1」と正確に合致するものとはならなかった。現今では、原器というハードウェアを離れて、「クリプトン86のだいだい色のスペクトル線の波長という現代物理学的なむずかしいもの」――のほうへ移っている。

光は、ひとつの波で長さの単位が与えられる性質とともに、その波がいくつという「数」によって長さの尺度が与えられるという性質をも備えている。長さ測定のための道具として"光の波"が"原器プラス尺度"に対してもつ優位性は明かである。

クリプトン86の原子の準位2p10と5dsとの間の遷移に対応する光の真空の下における波長の1650763.73倍倍したもの――それが「新しいメートルの定義」である。


◆ 『単位の進化 原始単位から原子単位へ』 高田誠二、講談社学術文庫、2007/8

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