■ 『野球王 タイ・カップ自伝』 イチローがタイ・カップを抜いた (2004.9.28)

イチローが大リーグ記録に挑戦中だ。最多安打まであと6 (251本)と迫った (2004.9.27現在)。ちょうど、タイ・カップの記録 (1911年の248本)を追い抜いたばかりである。


ベーブ・ルースが「打撃王」と呼ばれるように、タイ・カップには「野球王」と冠せられている。打撃と走塁面で特にすぐれていた。あのフック・スライディングを編みだしたのがタイ・カップだと聞けば、彼の攻撃的な野球スタイルが分かろうというものだ。スパイクをかみそりの刃のように鋭く磨いていたとの伝説さえあったほど。

タイ・カップは1886年に生まれた。1961年に75歳で亡くなる。大リーグ生活24年間、うち22シーズンをタイガースに在籍。タイガースのプレーイング・マネージャーを6年間つとめたが、その間、Aクラスに4回も入る好成績をあげた。



記録を並べるとすごさがわかる。
アメリカン・リーグの首位打者となること12回 (9回連続を含む)
大リーグにおける最高の終身打率 3割6分7厘
最多安打数 4191本
最多盗塁数 1シーズンに96 生涯を通じて892

バッティング・スタイルは、独特である。両手をあけてバットを握る。ボールに十分「力」が乗らないのではとの批判に対して、単に「力」のみがホームランを産み出すものではないと反論する。このグリップで剛速球をたたいて、奥深く守っていた右翼手のグローブをはじきとばした上に彼の指を折ってしまったこともあったと。

タイ・カップの球歴の大部分は、非常に「飛ばない」ボールの時代であった。さらに投手は、今日とは比較にならぬほど、スピット・ボールに代表される変速投球をおこなうことができた。ねばねばしたエルムの木の汁をつけたスピット・ボールなどは、投げおろすと、始めは普通の速球のようにプレートに近づくが、打者のバットの下までくると、とんでもない曲がり方をするのだった。

研究心の旺盛な努力家として、こんなエピソードが紹介されている。あるゲームで、三塁コーチが、浅い外野へのヒットで三塁を回ろうとするタイ・カップを押しとどめようとしたことがある。その時、外野からの送球は、すでに中継の内野手にはいろうとしていたが、彼は脱兎のごとく走り続けた。これを見たコーチは驚いてコーチャーズ・ボックスから飛び出し、本塁へ廻りかけた彼とぶつかって、仰向けに引っくり返ってしまう。ボールは見えてないのだから、指示に従えという監督の言に、彼はこう反論する。「監督さん、私もボールを見ていたんですよ」。

以前から、全速力で走りながら右肩ごしにボールを見、それがどこにあるか見当をつける練習をしていたというのだ。
また鉛をつめて普通の3倍も重くした靴をはいて走塁の訓練をしたとは!星飛雄馬も顔負けだ。


◆ 『野球王タイ・カップ自伝』 タイ・カップ著、内村祐之訳、ベースボール・マガジン社刊、1971/10
◆ 本書の人名表記は、タイ・カップであるが、近年はタイ・カッブと原音(Tyrus Raymond Cobb)に従うのが一般的のようである。


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