■ バレンボイムのこと (2001.4.14)

BSでバイロイト音楽祭の《神々の黄昏》を見た。演出はハーリー・クプファー、指揮はダニエル・バレンボイム。刺激的な演奏であった。ピアニストとしての経歴は知っていたのだが、さっそく「バレンボイムとは何者?」と興味がわいたのであった。

古本屋で入手したのは『音楽に生きる』とタイトルをうったバレンボイムの自伝。
◆『音楽に生きる ダニエル・バレンボイム自伝』ダニエル・バレンボイム著、蓑田洋子訳、音楽之友社、1994/7(「A Life in Music」、初版1991年)

ちょうどバスティーユ・オペラを解雇され、次にシカゴ交響楽団の音楽監督に任命されるまでの宙ぶらりんとなっていた時代に執筆したとある。バレンボイムは1942年アルゼンチンに生まれた。両親ともにユダヤ人、1952年にはイスラエルに移住。父親はピアニストであり幼少からピアノ教育を受ける。はじめはピアニストとしてデビューするが、11歳から指揮法も学び、現在では指揮者としても活躍。

本書の読後感は、「優等生の書いた模範答案」か。ピアニストとしての成長過程、ウィーンで受けた指揮法の教育など、丁寧に書いてある。しかし、最も興味をもって聞きたいのは、クプファーとどうやって、あの《ニーベルングの指輪》を創り上げたのか、ということであるが。バイロイト音楽祭の様子とか、さらにはジャクリーヌ・デュプレとの馴れ初めから死別とかは、表面的に触れられているだけである。もっとも、「序」では、アーティストの私生活はあくまでプライベートであるべきと、バレンボイムは断っている。ジャクリーヌの闘病生活という私生活上の長い困難な歳月のせいで必要以上に感じやすく神経質になっていたとのこと。

本文から興味深いエピソードを拾ってみると。
イーゴル・マルケビッチの炯眼
9歳のバレンボイムをみて父にこう言った。「息子さんのピアノは実に素晴らしいが、弾き方からすると、息子さんはまぎれもなく指揮者です」。父からは心にオーケストラの音を思い浮かべてピアノを弾くようにと教えられていた。

フルトヴェングラーの言葉 「11歳のバレンボイムは天才だ……」
1954年の夏、ザルツブルグでヴィルヘルム・フルトヴェングラーに出会った。

ジャクリーヌ・デュ・プレとの出会い
1966年エディンバラ音楽祭。彼女の演奏には――テンポとダイナミックスに関して――何か、全面的、絶対的に"正しい"という感じがあった。

◆バイロイトで
バイロイトではすべてが偏見から自由なのである。どんな新しいアイディアでも、一切の偏見なしに意欲的に実験しようとする態度、そして、そこから生まれる、芸術創造に対する限りない自由、また個人的な報酬が非常に限られたものであること、これらが一つになって、どういうわけか、上演に携わるすべての人々から高度な創造性を引き出す結果になるのである。

◆クプファーとの仕事
私が最初に見たクプファーの舞台はバイロイトで行われた《さまよえるオランダ人》だった――私はそれにすっかり魅了された。クプファーの仕事に引かれ、彼と一緒にやりたいと思ったのは、一つには、舞台上で群衆を扱う手腕が卓越したものであったからだ。《神々の黄昏》の第2幕。まるで舞台に何千人もの人々がいるように見え、なおかつ、一人一人の人物の動きと位置は入念に計算されたものだ。

◆CSOとの出会い
最初に聴いたシカゴ交響楽団の演奏。それは私にとって芸術的な天啓とも言うべきものであった。――1958年のことで、指揮はフリッツ・ライナーだった。まるで、鼓動する人間の心臓を持つ完璧な機械のようだった。だが決して、冷たく完璧な機械ではなく、素晴らしいヴァイタリティに満ちていた。



◆ついでにCDを聴いてみた。ブルックナーの交響曲第9番、オーケストラはシカゴ交響楽団。ドイツ・グラムフォン1975年の録音。バレンボイム33歳。

シカゴ交響楽団の圧倒的な力をバックにしたダイナミックな演奏。オーケストラの明るい音色も理由の一つだが、こんなに明晰にダイナミックに演奏して、バレンボイムはどこへ行くのかと思う。ときにマーラーでは?とまで思わせる分析的な響きも感じられた。あらためてシカゴ交響楽団の実力を再認識。全奏でも余裕がある。弱奏から強奏への移行がまったくスムーズ、まるでアンプのボリュームを操作する感がある。

クプファーの指輪 はこちら



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