■ 『車の誕生』 技術文明を考える (2002.5.11)



車は機械とよぶことのできる最初の技術文明
である。本書は「車」を切り口にした科学技術史。
物と人を動かす技術であった車は、世界を動かす技術にまで進化・成長をとげた。そして、車に代表される現代の技術は、地球的規模で生態系にまでも危機的状況をもたらしていると主張する。

車の誕生は紀元前3000年ごろ、牛や驢馬の牽く二輪車あるいは四輪車にあるという。南メソポタミアに都市国家を築いたシュメール人は、この新しい運搬手段を乗用や荷用に使った。都市国家の成立には軍事力の強化が必然。そのため、物資の輸送のために生まれた車は、戦士を乗せて走る兵器=戦車として使われるようになる。

車の誕生から1000年以上を経た前二千年紀のはじめには、牽引動物として馬が登場した。牽引力と機動性の点で牛や驢馬よりも数段と優れていた。さらに、スポークのついた車輪が出現し、以前よりもずっと軽量化された。二輪車は四輪車よりも軽量であっただけでなく、方向転換が楽なので、戦車はもっぱら二輪車となった。

ギリシア、ローマの時代は車に限らず、技術では低調であった。原因は奴隷制の発達にあるという。工業規模の拡大と海外進出の結果ギリシアには大量の奴隷が供給され、動力にも作業にも優れた道具であった奴隷を使用できた。このため、機械を改良する意欲がそがれたというのだ。ローマの技術の要約は、先達のギリシアとオリエントの技術の移植、それを国家事業として大規模化したところにある。事業に携わったのは、支配域の拡大過程で供給されつづけた多数の奴隷だったのだ。

近代の車の技術を先取りしたのはケルト人だという。ギリシア人やローマ人が戦車競争に興じていたとき、彼らに蛮族視されていたケルト人は車の性能の改良につとめ、見事な技術に到達していた。ケルトの戦車には、鉄のタイヤをつけた車輪が用いられた。また車輪の回転をスムーズにするためのコロ式の軸受け(ベアリング)も、ケルト人の発明した新技術である。

古代の日本で車といえば牛車のこと。江戸時代になっても、牛車以上に普及したのは人間のひく大八車だった。馬車は普及しなかった。ひとつは地形的理由。日本の風土は山あり谷ありで、乗用にしても戦闘用にしても馬車が利用できるような風土ではなかった。著者は、そもそも、日本の古代技術の源流である朝鮮に馬車が定着していなかったからだという。日本に移植されたのは、朝鮮に根づいていた騎馬と牛の文化だと。

さらに、日本の労働事情を考えなければならないと。日本は、いつの時代でも過剰人口を抱いた国であった。人間という優秀な動力源が容易に供給されたので、飼育や訓練に手間のかかる動物の利用に熱心にならなかった。江戸時代の終わりまで、馬車も走らなかった。明治になって人力車が活躍していた。もちろん、江戸時代は、車にたいする幕府や藩の規制も大きかった。



◆叢書:技術文明を考える『車の誕生』 荒川紘著、海鳴社、1991/5

荒川紘 (あらかわ・ひろし) 1940年、福島県に生まれる。専攻、科学思想史。静岡大学教養部教授。著書『古代日本人の宇宙観』『日時計――最古の科学装置』『科学と科学者の条件』


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