■ 『日本のピアノ100年 ピアノづくりに賭けた人々』 (2001.10.28)



カナダのピアニスト グレン・グールドは晩年、ヤマハを愛用したという。最後の録音(1982年)となった《ゴールドベルク変奏曲》もヤマハを弾いている。グールドは言う、「ヤマハはコンピューターに優るとも劣らぬエレクトリック・マシーンだ。ピアノはひとりでに弾き始める。決してぼくが弾いているわけじゃない」と。本書はこのエピソードから始まる。

ショパンコンクールで、入賞者がカワイを弾いたとのニュースもあった。日本のピアノが存在感を増している。ピアニストの園田高弘は、日本のピアノの特徴を、むらのない均質感や整ったメカニック、だと言う。あの「スタインウェイ」を追い越したのであろうか。

本書の副題には「ピアノづくりに賭けた人々」とある。プロジェクトXのテーマか。テレビでも、コンサート・グランドへの挑戦、として放映されたようだ。初めは外国製品をコピーし、やがて追いつき追い越せの昼夜兼行の努力によって、ついには世界の頂点に立つといういつものストーリーであろうか。ただ、ピアノは「楽器」であり、トランジスタ・ラジオとか自動車などの工業製品と違って、ハードのみならずソフト面の性格が強い。西洋音楽を具現化したものと言えるだろう。作り手には音楽的知識が必要とされる。

国産ピアノ第1号機は、明治33(1900)年に日本楽器の創始者、山葉寅楠によって製造された。主要部品の鋳物製のフレームやアクション、鍵盤など多くの部品は輸入したものである。最も重要な、ピアノの生命ともいうべき響板だけが国産であった。響板は音を響かせる木の板であり、音質や音量にも微妙に関係する。

ヤマハ(日本楽器)の歴史で、中興の祖とも言うべき川上嘉市を忘れることはできない。昭和3(1928)年、住友電線から招かれて社長に就任する。川上は東大工学部出身で応用化学のエンジニアである。金融面で建て直しを計るとともに、ピアノを工業製品として合理的に生産しようとした。測定装置オシログラフの導入など、科学的方法で音を誰にでも公平に判断できる目に見える形にしようと考えた。川上が日本楽器で押し進めた一連の改革は、ピアノ生産の木工家具に近い伝統工芸的な工場に、工業製品である金属電線の量産的な考え方や最新の品質管理方式を含めた近代工場のセンスを持ち込んだものだった。

ピアノの国内生産は、昭和55(1980)年に39万台とピークに達した。ここまで日本のピアノが成長したのは、ひとつにメーカーが工業製品としてのアプローチを採り、工場管理手法の導入したことであろう。また、「ピアノを持つこと」そのものが目標そのものともいえる母親たちの熱い思いか。ピアノはマイカーと並んで「人並み意識」を満足させる格好の耐久消費財だったのでもある。

いまピアノを取り巻く環境は厳しい。販売台数は最盛期の7分の1で、なおも低落傾向にあるという。世帯普及率は、平成3年(1991)年に23.3パーセントで既に飽和状態である。電子楽器が急速に普及していること。そして致命的な問題は「少子化」である。著者は、今こそ西洋音楽に向き合って、日本のピアノの持つ意味を問い直すことが必要だという。


◆ 『日本のピアノ100年 ピアノづくりに賭けた人々』 前間孝則・岩野裕一著、草思社、2001/10

◆前間孝則 (まえま・たかのり) ノンフィクション作家。1946年生まれ。石川島播磨重工の航空宇宙事業本部技術開発事業部でジェットエンジンの設計に20年間従事する。1988年に同社を退社。著書に『トヨタVSベンツ』『世界制覇』上・下(以上、講談社)『富嶽』上・下『マンマシンの昭和伝説』上・下『亜細亜新幹線』(以上、講談社文庫)『YS-11』上・下『戦艦大和誕生』上・下(以上、講談社+α文庫)などがある。◆岩野裕一(いわの・ゆういち) 編集者・ジャーナリスト。1964年生まれ。上智大学文学部新聞学科卒業。『王道楽士の交響楽 満州――知られざる音楽史』(音楽之友社)で第10回出光音楽賞受賞。その他の著書に『朝比奈隆 80代の軌跡』(木之下晃氏との共著、音楽之友社)などがある。日本出版学会会員。


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