■ オペラコンチェルタンテ・シリーズ 《 サロメ 》

東京フィル「サロメ」 歌唱支える雄弁な音楽

( 日本経済新聞 から )


大野和士と東京フィルのコンビの名物「オペラコンチェルタンテ」のシリーズの第18回は、「サロメ」。「無口な女」に続いてリヒャルト・シュトラウスの名作を取り上げ、充実した公演を創り上げた。(20日、オーチャード・ホール)

タイトルロールの大役を見事に果たし、自らの持てるものを存分に発揮したのは、緑川まり。少々不安定な部分もあったが、彼女のスケールの大きさは、シュトラウスの音楽に顕著な表出性の高さに正面から拮抗し得る強さを持っている。一方、彼のスコアには、喉の奥から絞り出されるような一言が、絶叫をも遙かに越える力と重みを持つ瞬間もある。その魅力が一層の説得力を持った時、このソプラノの逸材はさらに一回り大きく成長するだろう。

ヘロデのマグヌス・キーレが、フレッシュな中にも上演に奥行きを確実に与える歌唱を聴かせたほか、ヘロディアスの西明美、ヨカナーンの福島明也さらに吉田浩之、小川明子らも健闘。

とは言え、名実共に主役となったのは、今回もまた、大野と東フィルだ。シュトラウスの雄弁なオーケストラの書法が、交響詩の世界にも限り無く近いことを考えれば、それも道理。妖しい月夜の大気から、七つのヴェールの踊り、そして、ヨカナーンの首を我がものとしたサロメの陶酔まで、大編成のオケを自在に操る大野のタクトは、今世紀初頭の表現主義に通ずる世界を丹念に構築する。全曲を緊張の持続の内に描き切った東フィルの全力投球の演奏も賞賛に値しよう。

件の「七つのヴェールの踊り」では、伊藤キムの振付による側嶋久記子のダンスも密度も印象的。スタイルの面では、それまでの視覚的な面での静的な流れとの間に生まれたギャップは否定し得ないが、そのテンションの高さは、この部分を独立して観れば、卓抜のものと言える。

かたや、ステージの奥に投影される「ヨカナーンの首」には、違和感があった。音楽とダンスに拮抗する表現をここに期待することは、元来困難だということだろうか。

(音楽評論家 岡部真一郎) (日経1999.9.5)




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