■ 『新幹線開発物語』 十河信二の執念 (2002.1.4)





本書には、ほとんど人物描写がない。固有名詞が出てこないのである。新幹線というビッグ・プロジェクトを描ききるには、一人ひとりの人物にスポットを当てるわけにはいかなかったのだろう。淡々と事実・データを報告している。その中で、唯一の例外は十河信二である。


旧国鉄総裁の十河信二は2つのシーンに登場する。冒頭のまず新幹線が広軌に決定された経緯。

昭和32(1957)年、国鉄幹線調査会は、「東海道線の輸送力は全線にわたって行きづまるから、線路増設が必要である」との結論を明らかにする。そして翌33年に、線路の規格が答申された。広軌の方が、輸送力、速度、工事費の点で有利であること。東京―大阪間500キロは比較的独立性が強いことが、「広軌別線」の採用理由である。しかし、2,000億円近い資金の負担も、工事能力上も当時の国鉄には容易ではなかった。そのため、在来線平行の狭軌案も根強く主張されていた。

昭和33年7月7日、調査会の答申が出た午後、十河総裁は後藤新平の墓に報告に行ったとつたえられる。企業としてもっとも重要な決定に参加した彼は、先人の意志であった広軌国鉄線のできることを報告し、計画の完遂を誓ったにちがいない。広軌論の代表は明治41年初代の鉄道院総裁になった後藤新平であった。しかしこの論争は大正8年についに終止符が打たれ、広軌論者の敗北に終わっていた。

著者は言う。「広軌別線」を選ぶことは、国の交通政策としても、また国鉄経営の立場からも、重大な意志決定であった。もし国鉄の最高責任者が十河氏でなかったなら、あるいは結論が異なっていたかもしれないと。

もう一つのシーン。昭和38(1963)年3月には256キロのスピード試験に成功し、4月には外国の視察団を迎えて、新幹線の輝かしい前途が祝福されたころ。資金難は極度に深刻となっていた。この予算不足問題もからんで、任期のきた十河総裁は5月にその地位を去った。責任者としてはやむをえないことであったかもしれないけれども、新幹線に精根をこめた老総裁の退陣は淋しいことであった。――筆は押さえているが、著者は万感を込めて新幹線の最大の功労者に挽歌を送っている。


◆『新幹線開発物語』角本良平著、中央公論新社、中公文庫(2001/12)
かつて中公新書『東海道新幹線』として発刊(1964年)されたものに加筆・訂正したもの。ちょうど、『新幹線をつくった男 島秀雄物語』(高橋団吉著)と補完関係にある。ヒューマンドキュメントを読みたいならばこちらをどうぞ。→『新幹線をつくった男 島秀雄物語』

十河信二(そごう・しんじ) 1984-1981。愛媛県新居浜市生まれ。東京帝大法学部卒。後藤新平に認められて鉄道院に入り、満鉄理事となって大陸で活躍。終戦時は地元の愛媛県西条市長。71歳で第4代国鉄総裁に就任。2期8年を務め、東海道新幹線建設に奮闘する。

◆角本良平(かくもと・りょうへい) 1920年生まれ。1941年鉄道省(現国土交通省)入省。東京、四国、門司などの鉄道管理局に勤務し、58年東海道新幹線の建設計画に参加。都市交通課長、国鉄新幹線総局営業部長、66年国鉄監査委員、70年運輸経済研究センター理事、のち理事長などを歴任。早稲田大学客員教授等も務めた。早くから国鉄の地域分割、法人化を提唱。著書に『この国鉄をどうするか』『現代の交通政策』『都市交通政策論』など。角本繁さんの父君


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