■ 『ダーウィンと家族の絆』 ダーウィンは在宅研究家だった (2004.8.30)



ダーウィン
は、5年にわたるビーグル号の航海が終わると、ロンドンに戻った。その2年後、幼なじみのエマと結婚する。12年間で8人の子供をもうけるが、3人を失う。3人の子供の死のなかで、ダーウィンにもっとも大きな打撃を与えたのは、10歳に成長していた長女アニーの死だった。突如として激しい嘔吐に襲われ急速にしつこい微熱に進展。極度に衰弱する。この時代に医師がアニーに施せる治療法はなかった。死因はおそらく結核だったのだろう。

アニーの突然の発病とけなげな闘病生活、そして悲しい別れは、ダーウィンの世界観を決定的に変えた可能性がある。最愛の魂が無慈悲にも奪い去られた瞬間は、神の慈悲など存在しないことを確信した瞬間でもあった。アニーの死は、自然の気まぐれなのだ。そう考えることで心の整理をつけたダーウィンは、自然界が気まぐれに容赦なく振るう大なた――自然淘汰の原理――を身をもって実感したのである。

ダーウィンは種の理論に没頭することで、悲しみの淵にある苦しみを紛らわせようとした。「種の起源」に本腰を入れて取り組み、出版後に巻き起こるであろう論争に備えて心の準備を整えた。ダーウィンは、進化論を発表し、人々がその意味を知ったときに予測される攻撃を恐れていた。そして、自分が解き明かそうとしている法則は、自然の哲学において聖書に匹敵するものとして位置づけられると考えていた。

本書の著者は、ダーウィンの玄孫(やしゃご、孫の孫)にあたる。600ページを超す大著で、ダーウィンの家族が生き生きと描かれる。ダーウィンは、大学などに席をもたない。終生の在宅研究家であった。家族の目にするダーウィンは、毎日毎日、書斎の窓際に置かれた顕微鏡をのぞき、フジツボを解剖し続ける姿だった。ピーグル号での記録の整理では、すっかりフジツボの分類学にはまり込んで、8年間をフジツボの標本に捧げたのだった。

読後、興味をひかれたのは、わずか半ページだが、アルフレッド・ウォレスについての言及だ。ウォレスは手紙で、自分は独自に自然淘汰の理論にたどり着いたと打ち明け、自説に対するダーウィンの意見を求めていた。ダーウィンは自分がライフワークとして構築するつもりでいた自然淘汰説の提唱者としての権利を失う危機に、突如直面したのである。1年後に出版されたのが「種の起源」である。

自然淘汰の理論の最初の提唱者は、ダーウィンではなくアルフレッド・ウォレスではないか!


◆ 『ダーウィンと家族の絆――長女アニーとその早すぎる死が進化論を生んだ』 ランドル・ケインズ著、渡辺政隆・松下展子訳、白日社、2003/12刊


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