■ 『ダーウィン自伝』 進化論の父 ( 2001.8.7)
DNAの二重らせん構造がワトソンとクリックによって発見されたのは1953年であった。ダーウィン(1809-82)が『種の起源』で「進化論」を発表したのは1859年である。そして2000年には、米国のバイオ・ベンチャーのセレラ社が、ヒトゲノムのDNA塩基配列の99%の読み取りを終えたと発表した。わずか百二十数年の間にわれわれの祖先をたどる動きは急激である。
ダーウィンほど多くの伝記を書かれている人物はいないという。ニュートンにしてもアインシュタインにしても。「進化論」が生物学の範囲をこえて、社会科学の諸分野や哲学にまで広汎な影響を与えたのである。またキリスト教に最大の打撃を与えたものは「進化論」であったともいわれる。
ダーウィンが、生涯の転機となったビーグル号の航海に出発したのは1831年の暮れ。22歳であった。乗船する博物学者を募集するという偶然のチャンスを、父の強い反対を押し切ってものにしたのである。5年後に帰港するまで、南アメリカ沿岸、太平洋諸島、ニュージーランド、オーストラリアを周航した。セントヘレナ島の地質構造をつきとめたり、ガラパゴス群島に生息する動植物を調べ、南アメリカに住むものたちとの奇妙な関係の発見もあった。
ビーグル号の航海の後、『種の起源』の刊行は1859年(50歳)である。執筆には13カ月かかった。動植物の習性を長期間にわたって観察してきたので、いたるところで起こっている生存闘争の重大さを知る素地が十分にできていた。これらの条件下では有利な変異は保存され、不利な変異はほろぼされる傾向をもつであろうということに思いあたった。この結果は新しい種の形成ということになろう。ここに自然淘汰による「進化論」が誕生した。
本書は、ダーウィンが晩年、自分の楽しみのためだけでなく子孫にも興味があろうと考えて回想を書きつづったものである。必ずしも子ども向きの伝記とは言えないが、機会をとらえる積極性や、広い興味のもちかた、丹念で辛抱づよい研究態度を教えてくれる。夏休みの読書感想文の宿題を思い出すのであった。
蛇足;翻訳文のスタイルはもう古すぎませんか。いかにも生硬です。いちいち、「私は……」と訳す必要はないでしょう、「一人の家庭教師……」の
一人は不要では等々。
◆『ダーウィン自伝』 チャールズ・ダーウィン著、八杉龍一・江上生子訳、ちくま学芸文庫、2000/6
◆八杉龍一 (やすぎ・りゅういち) 1911-97年。東京大学動物学科卒業。東京工業大学教授を経て早稲田大学教授。訳書に『種の起源』がある。
江上生子(えがみ・ふゆこ)1942年、東京生まれ。東京都立大学理学部卒業。現在、東京工業大学助手。
まず人為選択(人為淘汰)から始まる。古くから栽培植物や家畜が改良されてきたが、育種家は生物のわずかな変異をみいだし、それをもとに選択を行い改良を行った。ダーウィンは本書初版では変異の原因は外的条件であると述べているが、6版ではこの点が改変され、外的条件は生物の本性に比べると副次的なものであるといっている。
次に、自然界でも生物のいろいろな部分に微少な変異がおこり、それが何代にもわたって蓄積してゆき進化がおこると考えた。その原因として自然選択(自然淘汰)という概念を導入した。つまり生物の多産性によって生存競争(闘争)がおこるが、進化にとって重要なのは同じ要求をもつ同種個体間のそれであって、ごくわずかな差異でも個体の存亡を決定する。環境に対して有利な変異をもつ個体が生存し(適者生存)、長い世代の間にその変異が蓄積して進化に結果する、と彼は主張した。
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