■ 『漢字が日本語をほろぼす』 剛直な漢字廃止論 (2015.5.12)





剛直な「漢字廃止論」が著者の主張である。しかし当面のスローガンとして、まずは、漢字をたくさん使って書かれた文章は、そうでないものよりりっぱで価値が高いという考えを捨てよう、と言う。漢字をへらせば、それだけ日本語の工夫がいる。並々ならぬ手間がかかるだろう。ことばそのものをよく考えなければならなくなると言う。

確かに、漢字にはわかものを英語に追いやる効果があると思う。手書きのメモなら、「今夜Telします」と書くに違いない。「今夜、電話します」よりも絶対に優勢だ。「電」はもはや多くの人にとって手間のかかる書きにくい文字なのだ。

すべての言語は、自立した言語になるべきだと、著者は言う。日常生活にとって使いやすく、自分の意見を自由に述べることができるもの。日本語は文字の助けがないと自立できない言語である。聞いただけでは意味がわからず、目で見なければわからない文字で書いてある――漢字のことだ。外国人には想像もできない。現代では、どんなことばも世界に開かれたことばになることが求められるようになった。外国人の参加なしには、どんなことばも生きのびられないからだ。早く身につき、しかも使い勝手のいいことばとして、きびしい言語の国際競争の場にさらされている。

日本では漢字の知識こそが、高い教養をもっていることを証明するものとされてきた。将来を考えるならば、漢字文化圏からさっさと脱出し、日本語独自の道をさがすことにこそ力を注ぐべきだという。ハングル化の道をマネすることもあり得る。日本のハングル=かな、あるいはローマ字という考えもあると。韓国では15世紀にハングル文字が作られた。漢字を借りずに独自のオト文字によって母語を表記する方式。現在では、いっさいの漢字を廃してハングル専用を法律に定めて実行している。結果は絶大なものである。字の読めない人はほとんどいなくなった。さらに、韓国が先進的な企業活動で驚異的な成果をあげているのは、ハングルがもたらした業績という意見もあるる。

日本の文化や科学技術が今日のような水準まで到達できたのは、ひとえに漢字のおかげと説く文化人は多い。ある程度までそうだろう。しかし、そのせいで日本の学問や科学技術は外国からのなぞりに終わってしまったと言える面もある。借用した不消化な漢字語でなく、本来の日本語にたよりたいものだ。近代化が漢字をもって行われたことの、もうひとつの問題点が、こどもとおとなを言語的に引き裂いたことだ。こどもには読めない文字を、平気で日常の実用言語に用いている。これは他の近代諸言語にはないこと。

医学用語は、どんなにわずらわしく、物々しいものか。「分娩」の娩は、たぶんこの時にしか使わない漢字だ。医学用語がこんなに難しくなっているのは、たぶん、医術の秘儀性をまもり医者と患者の間の距離をひろげるためだったのだろう。「耳鼻咽喉科」でも、ドイツ語ではなるべくふだんのことばで言おうとする。「みみとのどの病院」とか。眼科はめ科でよい。そうすればこどもでもすぐわかる。

漢字は一つ一つの文字がそれだけで独立した意味をもっている。オトに出して読めない地名、人名、根本概念すらもが、読めなくても見ただけでわかる。漢字は超文字といえる。中国には30もの異なる言語が存在するが、そのちがいを漢字というオトなしの意味文字という傘でおおいかくして通話を可能にしているのだ。


◆ 『漢字が日本語をほろぼす』 田中克彦、角川SSC選書、2011/5

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