■ 『咸臨丸 海を渡る』 勝海舟の苦労があった  (2013.5.9)




ぺりーが黒船4隻を率いて突然江戸湾に表れ、徳川幕府に開国を迫ったのは、1853(嘉永6)年のことである。翌1854(安政元)年、幕府は日米和親条約を締結する。さらに、1858(安政5)年、品川沖のアメリカ軍艦ポーハタン号で日米修好通商条約が調印された。このとき、ワシントンにおいて両国間で批准書を交換することが約される。

渡米使節の送迎はアメリカの軍艦によるが、その際日本側からも自前の軍艦を仕立てて、日本人の手によって運航しアメリカに渡るべきだとの案がでる。海軍や軍艦そのものを実地に見聞することで、幕府海軍の建設を捗らせようという目論見だ。

勝海舟が草案をつくり具申。曲折のすえ咸臨丸が派遣されることになり出航の準備が進められる。初めての太平洋横断という遠洋航海にどれだけの物を用意すればよいのか、勝も大雑把な見積りしかできなかった。運航にしても幕府側は、アメリカから士官1人、水夫2、3人が乗り組めば、太平洋横断は充分できると踏んでいた。

航海の責任者・司令官には木村摂津守(30歳))が任命される。艦長は勝海舟(37歳)。アメリカ側から乗り込むことになったブルック大尉(34歳)は太平洋横断の経験があった。中浜万次郎(33歳)は通詞として。彼は航海士としての実力も備えていた。従者のなかには福沢諭吉(25歳)も。そして、著者の曾祖父に当たる長尾幸作(25歳)も搭乗していた。彼は航海日記として『鴻目魁耳』(こうもくかいじ)を書き残す。

著者・土居良三は曾祖父の記録を元に、さらにブルックの日記をも参照し、太平洋横断のドラマを明らかにする。とくに往路、荒天のなかでの日本人の狼狽ぶり――大洋航海の未経験故の――を活写する。一方で危機的状況でのブルックの沈着な指揮ぶりは、サムライの風貌すら感じるほどである。

苦難のすえ咸臨丸はサンフランシスコに到着し大きな歓迎をうける。ポーハタン号の随伴として先駆し外交的役割を充分に果たした。ジャーナリスト大宅壮一(1670年没)は『炎は流れる』の中で、「かりに咸臨丸が日本人乗組員だけで運行して沈没し、勝海舟や福沢諭吉が船と運命を共にしていたならば、幕末日本史と明治文化史も、かなりちがったものになっていたであろう」と述べている。


1860(万延元)年1月13日、咸臨丸はポーハタン号に先だって品川を出航する。当時アジアに派遣される米海軍艦艇のほとんどはアフリカ経由の航路をとっていた。1858〜59年に軍艦で太平洋を横断したのものは全くない。咸臨丸の太平洋横断は当時の日本にとっては非常な無謀であったと言えるだろう。天候の見通しも甘かったか。陽暦2月中旬から3月という、温帯低気圧の発生しやすい時季に、それが最も発達する海域にまともに突っ込んだのだ。猛烈な風と波に翻弄されることになる。

浦賀を出帆した3日後から暴風雨に見舞われる。ピッチングが激しく波が甲板に打ちこみ溢れ、1メートルを越えて川のように流れている。ブルックは日記に書く、「天候はひどい荒れ模様。日本人の水夫は帆をたたむことができないので、部下をマストに登らせた」と。すでに咸臨丸の運航はアメリカ人の手に一切任されていたようだ。「非常に荒い海で、しばしば波が打ちこむ。日本人は全員船酔だ。艦長(勝)は下痢、提督(木村)は船に酔っている」。ブルックの辛辣なことば――「日本人は無能」だと、はっきり日記に書いている。軍艦の乗組員として水夫の訓練、躾ができていない。士官たちの動作もなっていないと。

この荒天について、ブルックの日記には緊張感が見られるが恐怖はない。スリルを楽しんでいるようにもみえる。暗闇の中を疾走する咸臨丸の甲板に、滝のような雨に打たれながらブルックは立ち尽くしている。この時が咸臨丸の航海の最大の危機だったのだろう。咸臨丸の往路の前半十日余りは非常に苦しんだ。後半は短時間のハリケーンのほかは、ひどい時化には遭遇しなかった。大洋航海の体験を繰り返しながら、日本人たちも航海術に長けてくる。水夫たちは帆の操作にも慣れマストの上で平気で帆をたためるようになる。

江戸湾から浦賀を経て、2月26日、38日目にして、咸臨丸は太平洋四千浬を横断しサンフランシスコ湾に到着した。ポーハタン号はまだ到着していない。日本からの使節がポーハタン号に乗って来るということはサンフランシスコにも知られていたが、咸臨丸のことは知られていなかったようだ。忽然と現れた咸臨丸をみてサンフランシスコは町をあげて大騒ぎとなった。新聞記者も押しかける。ミステリアスな隣国のサムライに対する好奇心と、東洋諸国との貿易発展に強い期待を持つ市民によって、咸臨丸一行は連日歓迎責めにあった。

その後、咸臨丸は荒波による損傷箇所を補修し、3月19日サンフランシスコを出港する。見送りにきたブルックの船に対し日本人一同が万歳を三唱する様子は感動的だ。日本への帰路は出だしから順調であった。帆と蒸気で快適な航海を行く。往路とは打って変わって海は静か。文字どおり日本人だけの力で太平洋を渡ったのだ。5月5に浦賀に至る。翌6日に神奈川を経て、夜に入り品川沖に投錨した。

正使を乗せたポーハタン号が咸臨丸に続いて、サンフランシスコに入港したのは3月9日である。正使一行は16日にパナマに向かいワシントンを目指した。

(注) 文中の月日は旧暦表示

◆ 『咸臨丸 海を渡る』 土居良三、中公文庫、1998/12

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