■ 『帰化人』 古代の政治・経済・文化ワオ語る  (2017.11.11)




この著者の言葉は心に響く…… われわれは誰でも古代の帰化人たちの血を10%や20%はうけていと考えなければならない。われわれの祖先が帰化人を同化したというような言い方がよく行われるけれども、そうではなくて、帰化人はわれわれの祖先なのである。彼らのした仕事は日本人のためにした仕事ではなくて、日本人がしたことなのである。

以前は日本人の固有の文化とか素質とかというものを何かむやみに高いものと決めてかかる風潮があった、と著者はいう。帰化人のはたらきは、そういう固有のものの発展を外から刺激し、促進したにすぎないという見方だ。しかし、彼らが日本に持ち込んだ技術や知識・文物は、当時の日本のものにくらべて、桁ちがいに進んだ高度のものだった。それによって初めて、日本の社会は新しい段階に足を踏み入れることができたのだ。

本書の底本は1966年に至文堂刊行の日本歴史新書『帰化人』(増補版)である。原著の刊行は1956年、すでに半世紀を超えているのだが。本書では、「帰化人」という言葉を使っているが、いまほとんどの高等学校の日本史教科書は、「帰化人」を用いず「渡来人」を使っているそうだ。本書刊行ののち、上田正昭『帰化人――古代国家の成立をめぐって』(中公新書)が出されている。


帰化人の活動のなかで、ことに文字使用の技術を導入し普及させた文化的功績は非常に大きなものである。日本には固有の文字というものがなかったから、漢文の語法のなかに和文の語法を交え、漢字の音と訓を混用して日本語の固有名詞を書き表した。このような工夫を経てはじめて日本では文字の使用が可能になった。難しい仕事だったが、その努力をしたのは帰化人である。だから文字を扱う仕事は長い間帰化人たちのものだった。

帰化人を代表するのが漢氏と秦氏。漢氏の祖先が渡来して文筆・財務・外交などに携わり、あとから来た手工業技術者を従え朝廷のなかで大きな地歩を占めるようになった。次のような分野である。仏教関係の仕事:工事の指揮者・仏師など、外客の接待:渉外関係の仕事・高句麗上表のときの使節の出迎えなど、大がかりな排水工事や造営工事、百済船の建造など造船も。

秦氏は百数十県という多数の人民を率いて来朝。養蚕・機織の業をもって朝廷に仕えた。ハタは機織の意らしい。早くから内蔵や大蔵の事務に携わり朝廷の財務に関係していた。雄略天皇のとき大いに発展し絹・綿・糸の生産で多数の部民を従え経済的実力を蓄えた。やがて政治的、社会的にも漢氏に勝るほどの勢力を持つようになった。

4世紀末から5世紀初めのころから、帰化人によって大がかりな耕地の開発が畿内で行われた。鉄製農工具によって農業生産力も向上する。鉄は兵器としても使われる。6世紀の後半頃から、諸々の特殊技技能を有する――後期帰化人とも言うべき新しい姿が現れてくる。遣隋留学生となって医術を学んで帰り薬師の姓を与えられたもの、造寺・造仏工・易・暦・医博士・僧侶・楽人などだ。渡来人をそのまま登用している例も非常に多い。

留学生派遣は語学知識の便宜が大きく物をいうため、選ばれたのはほとんどが帰化人であった。彼らの帰国によって最新の中国文化が導入され中央豪族たちの文化水準が高められた。同時に革新の機運が急激に高められた。中大兄皇子や中臣鎌足を中心とする改革実行グループは、彼らと深く接触しながら形成されていったのだろう。

百済は新羅・唐連合軍に滅ぼされる(660年)。日本は救援軍を送ったのだが、白村江で唐の水軍に大敗を喫し(663年)、百済再興は完全についえてしまった。この結果きわめて多数の亡命者が集団をなして日本に渡来した。高い教養をもち優れた技能をもった者が大部分であった。彼らは朝廷に優遇され、学芸・技術の多方面に活躍し奈良朝文化形成の主要な力となった。鉄精錬などの技術も進んだようである。高句麗滅亡の際にも多くの亡命者があった(668年)が、彼らは武蔵国に移され高麗郡をなした。

東大寺大仏の鋳造は聖武天皇による大事業だったが、帰化人・国中公麻呂はこの難事業のリーダーに登用され、十年近くの年月を費やし数回の失敗を重ねながらついに完成した(752年)。平安時代の初頭、9世紀にかかる頃は、いよいよ帰化人の歴史の終末期か。新都造営における秦氏一族の奮闘、蝦夷征討における坂上田村麻呂など。帰化人の歴史の最後を飾るものか。


◆『帰化人 古代の政治・経済・文化を語る』 関晃、講談社学術文庫、2009/6

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