■『好奇心の赴くままに 私が科学者になるまで』  ドーキンス自伝  (2015.3.18)








"DNA"があたかも人格をもつかのように、一躍注目を浴びる存在になったのが、ドーキンスのベストセラー『利己的な遺伝子』によってである。本書はそのドーキンスの自伝(2部作の第1部)だ。父のアフリカ赴任にともない、ドーキンスはその地で子供時代を過ごしたという。のちの生物学者としての素地になったのだろうか。


ドーキンスはかつては、生物世界のあまりの美しさとデザインの巧みさに魅了されていた。デザインの出現には設計者がいるにちがいないと信じていたという。しかし、この信念は長続きしなかった。創造神よりもダーウィン主義的な進化のほうがより強力であることを理解したのだ。『利己的な遺伝子』の中心的なメッセージの原点は、1966年オックスフォード大学での動物行動学の学部学生相手の講義にあるという。

当時パングロス主義が全盛であった。ダーウィン説を、集団の利益対個人の利益といった疑問にを適用しようという試みだ。しかし、自然淘汰が、――種がうまく絶滅から逃れるようにするとか、性比のバランスをうまくとるとか、公共の福祉という利益のために個体数をうまく制限するとか、将来の世代のために環境を保全するとかいったことを ――実現できるだろうか。自然淘汰は盲目的に短期的な利得を選り好みすることしかできないのだから。

ドーキンスは主張する。自然淘汰が実際に働いているレベルとしての遺伝子に注目すべきだ。自然淘汰は世代のふるいを通り抜けて、遠い将来に生き残る潜在能力をもつ実体のあいだで、自動的に利己性を優遇するのである。地球上の生命に関するかぎり、その実体は遺伝子を意味する。

遺伝子は、親から子へと伝え渡されるたびに混ぜ合わされる。動物の体は遺伝子にとっては一時的に休息する場所にすぎない。その遺伝子がさらに将来まで生き残れるかどうかは、その体がすくなくとも繁殖し遺伝子が別の体に入るまで生き残れるかどうかに、かかっている。ネオ・ダーウィン主義の進化論の基盤にたてば、遺伝子は利己的と言えるだろう。

遺伝子は正確なコピーという形で潜在的に不死であるから、何世代にもわたって生き残ることにすぐれた遺伝子に、世界は満たされるようになっていく。実践的には、他の遺伝子と協調して繁殖できるまで十分長く生き延びるような性質をもつ体を構築するという仕事にすぐれていることを意味する。体は遺伝子がやどり、次に伝えられていくための一時的なヴィークル(乗り物)だからである。


◆ 『好奇心の赴くままに ドーキンス自伝 私が科学者になるまで』 リチャード・ドーキンス著/垂水雄二訳、2014/5、早川書房

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