■ 『黒船来航 日本語が動く』 《候文》から《べし文》へ (2013.8.7)





ペリーが日本開国の命を帯び、アメリカ東インド艦隊を率いて、江戸湾に姿を現したのは、嘉永6(1853)年のことである。翌年には日米間で和親条約が結ばれ、つづいて日米修好通商条約が締結された。明治新政府は、列強の圧力に押され、安政の五カ国条約以下、徳川幕府が結んだ諸修好条約を、治外法権を是認し、関税自主権が欠落する「不平等条約」であるとした。幕府の姿勢を、弱腰、無能と決めつけ、衝に当たった幕臣たちの努力も評価しなかった。



近年、幕末外交交渉における幕府側の努力と、交渉当事者たちの能力が再評価されるようになってきた。本書は、こうした背景に加えて、日米和親条約から安政の五カ国条約にいたる数年間の外交交渉を対象に、近代文章語成立の序章としての幕末外交文書に光を当てている。著者は、幕末の外交文書に対する苦闘が、明治期の言文一致体、さらには近代日本語の確立へとつながっているというのだ。

幕末維新期は、日本語の歴史から見ても、最大の変革期だった。その中で、外交文書を作成することは、黒船がもたらした西洋の論理と直に向き合い、新たに日本語で的確な表現を与えていくという真剣な実験の場でもあった。そこには、次々に迫ってくる西洋列強に言語をもって渡り合い、日本の独立を守り、次代の日本語への道を拓いていった蘭通詞と幕臣たちの努力があった。

外交条約文では、互いに異なる当事国の論理や思惑の結果として、複雑で入り組んだ条件や留保を含んだ条項を立てることがある。時には、一方の当事国の既存の語彙や構文法では上手く表現できない内容を、新たな語彙や構文法を加えることによって表現しなければならない。そこでは、新たな表現が与えられねばならなかった。そこに近代日本の新たな文章語が成立する契機が生まれたのだ。公的な文章語として君臨してきた漢文からの脱却、江戸時代の公的な文体として機能してきた候文の後退、といった課題がつぎつぎに提起された。

『日米和親条約』には、漢文版・蘭文版(オランダ語版)・英文版が存在するが、さらに日本語版としては、@漢文和解版・A蘭文和解版という二通りがある。これらの日本語版は日本側が独自に作成したものであり、アメリカ側は関知していない。この二様の日本語版には顕著な文体差が存在する。@漢文和解版の方は、いわゆる《候文》型の文章で、「〜候儀致間敷」「〜有之候」「〜候事」などの言い回しが全体に目立つ。一方、A蘭文和解版は、「〜せしむ」「〜なかるべし」「〜すべし」などが目立つ文章で、《べし文》型とでも名付けられるものである。

元来、候文は丁寧語が頻用されるに相応しい書翰の中で用いられた。時代とともに、配下への命令書でも、上司への上申書でも、民衆への御触書でも、候文が主流となる。黒船来航当時、候文は発信者と受信者との間の身分の上下に関わりなく広く用いられていた。候文にはいくつかの決まり切った表現形式が備わっている。この定型性を活用すれば、ルーティーンな情報の伝達は極めて円滑に行われる。

それまでにない複雑な情報を示さなければならない場合、候文の定型性は、そうした新規の表現に対する足かせとなる。外交文書では、しばしば入り組んだ仮定的な住建を示した上で、それへの対応のあり方を確認する条項が見られる。これら仮定的事態の発生とそれへの対応を定めた諸条項では、《候文》よりも《べし文》の方が、しかじかの場合にはどうこうせよ、こういう特例以外にはどうこうするな、という各条項の中核的な内容を明確に表現している。外交条約では《べし文》の方が多く用いられた。そしてこの文体が、明治期における普通文――言文一致体へと、つながっていったのだ。


◆ そうだったんだ!日本語 『黒船来航 日本語が動く』 清水康行、岩波書店、2013/5

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