■ 『ノモンハン戦争』 ノモンハン前夜が明らかになる (2009.7.29)




司馬遼太郎が晩年ノモンハン戦争をテーマに小説の構想を練っていたことはよく知られている。しかし結局このテーマは結実することはなかった。本書から浮かび上がってくる、闇に閉ざされていた陰惨な歴史は司馬遼太郎の世界にはまったくそぐわない。

ノモンハン戦争の敗北について、日本ではひた隠しにされてきた。ソ連、モンゴル側にも、大きな問題が隠されていたはずだ。今までノモンハンについて書かれた一般読者向けの本では、ひとりの著者もオリジナルな文献を読みこなしていなかった。だから、あの時の部隊の動かし方はどうか、この指揮官のやり方はまずかったというような、日本軍内部のうちわ話しの域にとどまっていたという。

著者の意図は、あの戦争はいったい何だったのか、背後には何があったのか、どのような状況によって戦争に至ったかを、ロシアやモンゴルで発表された最近の研究成果にもとづいて、客観的に示そうというものだ。著者は言語学者であるが、説得力がありかなりの自負を感じる。

1939(昭和14)年、満洲国とモンゴル人民共和国とが接する国境付近で、国境地帯の領土の帰属をめぐって、4カ月にわたって死闘が繰り返された。敵対したのは、日本・満洲連合軍とソビエト連邦・モンゴル人民共和国連合軍であった。ソ連の圧倒的な数量の戦車・航空機に対し、日本軍は貧弱な装備で立ち向かった。150台の戦車に対し、日本軍はサイダーびんにガソリンを詰めた火炎ビンを戦車の下に投げ込んで炎上させるという、捨て身の戦術でしか抵抗できなかった。何千という死体、死馬の山、無数の砲を戦場の置き去りにして敗退したという。

そのときの関東軍のかまえは、一部の参謀たちによる単に思いつきの好戦的な冒険主義に近い、定見のないずさんなものだった。一方、ソ連とモンゴル人民共和国は、日本軍のたくらみははるかに深いものだと外部に言いつのっていた。モンゴルをまず占領し、それを足がかりに、日本はシベリア、中央アジアにまで進もうという大規模な侵略計画の第一歩であると。

近年、ノモンハン前夜の1937、8年ごろの陰惨な粛清の状況が明るみに出てきた。現代史家のS.バートルはこう言っている「20世紀のモンゴル国の歴史上、最大のハルハ河の戦闘(ノモンハン戦争)でさえも、モンゴル人民革命軍は237人が殺され、32人が行方不明となっただけだった。ところが、この戦争に先立つ1年半の間に、国家反逆罪で有罪とされた者はその117倍に、処刑された者は88倍の多数にのぼった。特別査問委員会の50回にのぼる会議だけとって見ても、19,895人を処刑したということは、毎日398人を処刑したことになる」と。

ソ連はモンゴルを意のままにするために、抵抗するモンゴルの首脳たちに、あるときは激しい拷問を加え、自分が日本にやとわれてスパイになったと自白させた。そして、あらかじめ準備されていた名簿に同意を強いた。そこには、その組織に加わったとされる人物が並び、その自白書に署名するだけでよかった。

人民共和国の首相その人が日本のスパイと手を組んで、自らの国をくつがえすという最大級の国家反逆者の汚名をかぶった例さえあった。モンゴルの独立を切実に願うため、コミンテルンの意のままにならない、最高指導者をソ連に連行して療養させ、亡き者とする方式も存在した。「反ソの陰謀に荷担し、日本のスパイとなった」とする国家反逆罪のかどで銃殺されたという。


◆ 『ノモンハン戦争 モンゴルと満洲国』 田中克彦、岩波新書、2009/6

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