■『ペリー提督 日本遠征記 上・下』 恫喝外交だったかも (2014.10.22)



幕末資料として、引用されることの多い、ペリー提督の『日本遠征記』は、かねて一度は通読したいと思っていた。本屋の店頭に文庫本新刊として、上下2冊が平積みされているのを見ると、見過ごすわけにはいかず思わず手が出てしまった。

本書は、1856年に米国議会上院へ提出された報告書「アメリカ艦隊の中国海域及び日本への遠征記―1852〜54年」("Narrative of the Expedition of an American Squadron to China Seas and Japan,in the year of 1852,53 and1854")全3巻のうち、第1巻の日本語版とのこと。


上下2巻を合わせて1200ページ!抄訳では味わえない読書の楽しみがある。外交記録だけでなく、ペリー艦隊と直面した日本民衆の好奇心旺盛な対応ぶりとか。帯同した自然観察部隊が詳細な記録を残していることに感心する。ハイネ等が描いた日本の風景にも懐かしさを感じる。そして何より、日本遠征を必ず成功させようとのペリーの強い意志が伝わってくる。ミッションを達成するための、海軍士官らしい用意周到さが随所に見られる。当時の最新鋭軍艦(蒸気船)で艦隊を編成し遠征したのである。ペリーは、日本に対しては、あくまでも武力を背景にした交渉により――恫喝外交と言っていい――開港を推し進めようと考えていたのだった。

ぺりーの遠征計画は、2カ月も前に世界に公表された。ヨーロッパ諸国ではさまざまに論評されロシアをはじめ各国を刺激した。日本との交渉を早期に実現すべきとの気運が高まったのである。ペリーの目論見は、単に条約締結だけでなく、現実的なものでもあった。日本との交渉が失敗したときには、代替案として琉球を武力で占拠することまで考えていた。小笠原諸島を視察し、捕鯨船への食糧や水・石炭などの補給基地としての、目論見をもっていた。

ペリーが艦隊を率いて、アメリカのノーフォークを、出発したのは、1852年11月である。艦隊としての編成が間に合わず、ミシシッピ号ただ1隻だった。石炭と食糧の供給の便を考えて、太平洋を渡るのではなく、喜望峰を回るコースをとった。石炭の補給は万全の準備をした。出発前に、ニューヨークのホーランド商会を動かし、石炭船2隻を、喜望峰とモーリシャスにむけて出発させていたのである。航海中乗組員は戦闘準備に必要な演習を定期的に行ったという。

上海で合流したペリー艦隊4隻が、日本の浦賀沖合に投錨したのは、1853年7月8日である。午後5時であったという。天候は晴れ上がり、富士山の高い頂きがくっきりと見えたという。ペリーは幕府との交渉にあたり、断固たる態度をとった。役人との交渉は旗艦のサスケハナ号のみで直接おこなうことした。自身は故意に長官室に閉じこもり、副官を通してのみ交渉を進めた。官職と用件をはっきり述べた者しか乗船させないことにした。相手が幕府の最高位の役人でなければ、自らは交渉しないと決意していたのである。

そして、幕府が慌てるように圧力を加えた。測量用のボートを送り、江戸湾の奥深くまで行かせた。強力な軍艦が江戸に近づいていくという状況が、当局をあわてさせ、こちらの要求に色よい返事を出すよう促すことになると確信していたからである。久里浜に上陸し、幕府の交渉団と会見し大統領親書を幕府に手交した。その後に、ペリーは、直ちに全艦隊に航進し、江戸への水路を調べるよう命令した。測量業務に大兵力をかけ、これほど江戸の近くで実施すれば、幕府の誇りと自負心に決定的な影響を与え、大統領の親書をもっと尊重するのようになると確信していたのだ。

ペリーは、幕府との会見で、来春再び来航し、回答を受け取る旨を約束した。幕府からの最終回答を来春まで待ってもかまわない、切実な理由がぺりーにはあったのだ。当時、中国は争乱状態にあり、中国沿岸におけるアメリカの権益を保護するためには、ペリー艦隊の力が必要だったのである。それに、合衆国からの贈り物を積んだ船がまだ到着していなかった。翌年になれば、全兵力を日本対応に集中でき、大きな圧力をかけ、多くの譲歩をとりつけられるだろう。このペリーの方針は、幕府の慎重な形式主義に対して丁重に譲歩したという印象をもたらした。

日本再訪は1854年2月7日である。ペリーは、幕府の役人を相手にするときは、あらゆる儀礼を排除するか、もしくは尊大でもったいぶった態度をよそおう必要があると考えていた。なにがあろうと意志を貫き、理不尽な頑固者という評価を確立するのが得策だとも。ペリーには脅迫の意図もあって、間近に江戸の町が見える地点まで、艦隊を移動させた。
横浜上陸は1854年3月8日。和親条約の交渉に入った。ペリーは艦隊を横浜沖に一列に停泊させ、海岸を大砲の射程に入れるよう命じた。艦船の大砲で海岸全体を制圧したのである。全艦隊は9隻の大編成 ……蒸気フリゲート艦の旗艦ポーハタン号、サスケハナ号、ミシシッピ号、帆船のマセドニアン号、ヴァンダリア号、サラトガ号、サザンプトン号、レキシントン号。サプライ号は遅れて艦隊に加わった。幕府から大統領親書への回答があり、かくて日米和親条約が調印された。

ペリーは幕府の兵力に厳しい評価をしている。ヨーロッパやアメリカの軍艦からのわずかな砲撃や、わずか数隻の武装された短艇からの攻撃にさえ、持ちこたえられる要塞はおそらくこの国のどこにもないだろう。

民衆についてのペリーの印象は好ましいものだったようだ。日本の発展を予感している。日本人は好奇心旺盛であった。電信装置の実演に対する注目ぶりとか。衣服のボタンをしきりに欲しがったとか。簡単で便利なボタンが、当時の服装品にはまだ使われていなかったのだ。日本人は、非常に模倣が巧みで、適応しやすく素直な国民だという。機械的な技術においては非常に器用である。道具が粗末で機械の知識も不完全であることを考えれば、手工技術は驚くべきものだ。ひとたび文明社会の高度な知識を習得したならば、日本人は将来の機械技術上の成功を目指す競争において強力な相手になるだろうと。


◆『ペリー提督 日本遠征記 上・下』  M・C・ペリー/F・L・ホークス編著、宮崎壽子監訳、角川ソフィア文庫、2014/8
   (本書は、2009年4月に万来舎から刊行された『ペリー艦隊日本遠征記』を改題し、文庫化したもの)

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