■ 『紙つなげ!彼らが本の紙を造っている』 再生・日本製紙石巻工場 (2014.11.11)






2011年3月11日に発生した東日本大震災によって、宮城県の日本製紙石巻工場は津波に呑みこまれる。工場の機能は完全に失われた。従業員の誰もが「工場は死んだ」と言うほと絶望的状況だった。「工場が復興できる」と思ったのは誰もいない。工場の1階部分はすべて泥水に埋まり、周辺から流入してきた瓦礫が2メートルは積もっている。電気も通っていない。建屋内は真っ暗で、何が流入しているのか、まるで予測がつかなかった。


将来の展望がまったく見通せないなかで、工場長は半年での復興を宣言した。その日から、従業員たちの必死の闘いが始まる。電気もガスも水道も復旧していない状態での作業は困難を極めた。従業員はみな、工場のため、石巻のため、そして、出版社と本を待つ読者のために力を尽くした。

震災から半年後の9月14日、ついに石巻工場8号マシンの再稼働の日がやってきた。全長111メートルの巨大マシンを、紙がスムーズにつながるのは通常でも難しい。少しでも不具合があれば、紙はどこかで切れてしまう。紙を最後のリールまでつなげる作業を「通紙」とよぶ。これには最低でも1時間、遅いときには数時間かかる。関係者は長時間を覚悟していたが、意外にもスムーズにつながった。パーンと華やかな音を立ててエアカッターが紙を切り離し、紙はシューッという音と同時にリールに巻きついていく。「一発通紙だ!」の歓声があがる。

この日、東日本大震災から半年、石巻工場は息を吹き返した。誰もが想像しえなかった半年復興だった。

従業員には矜持があった。「自分たちの中では、石巻は日本製紙の基幹工場という気持ちを持っているんです。その工場をつぶしたら日本製紙はダメだろうという危機感はいつもありました」。日本製紙は、日本の出版用紙の約4割を担っている。「この工場が死んだら、日本の出版は終わる……」

震災直後の3月下旬、倉田博美工場長は復興をこう決意した。社宅の一室での対策会議だった。「復興の期限をきることが重要だと思う。全部のマシンを立ち上げる必要なない。まず1台を動かす。そうすれば内外に復興を宣言でき、従業員たちもはずみがつくだろう。まず、1台でいいんだ。期限は半年」。一同は驚きのあまり声も出なかった。

「もともかなり無理な計画でした。しかし、私が目標を設定しないと、工場がどこに向かって走ればいいのか、分からないでしょう」。半年復興という目標は、明るい話題のない被災地で、唯一具体的な希望ではなかったか。

復興にあたって、工場の抄紙機の現実は酷かった。紙を抄くのに塵一つ混入してはいけないのに、どこもかしこもドロドロ。しかも工業用水は夏まで復旧しない。構内の泥を撤去するのは、中に重機が入れないので、すべてスコップで掻き出すほかはない。パイプが入り組んでいるところは、手で掻き出すところも出てくる。誰も経験したことがない事態だった。

営業部の意向によって、抄紙機の回復計画は、当初のN6マシンから8号マシンに変わる。「8号の紙を出版社が待っている。このマシンを最優先にしてほしい」と。8号マシンは1970年に稼働した古いマシン。単行本や各出版社の文庫本の本文用紙、そしてコミック用紙など、ほかの工場では作れないものを製造していた。

震災直後の8号マシンは、鉄筋コンクリートの堅牢な建家の2階にあり、幸いにも津波はのがれた。しかし、原料を運ぶマシンの中枢と、電気系統やシステムをつなぐ無数のパイプや電線・ケーブルなどがグチャグチャにやられていた。

ボイラーとタービンの復旧を最優先に急いだ。モーターの復旧には、驚くような応急処置を従業員はとった。「モーターをでっかい釜の中に入れて煮るんです。そうやって塩抜きして、絶縁処理して、ベアリングを交換する。とにかく数が膨大です。立ち上げの順番にとりあえず整備しようと。やれるだけやろうっていう、前向きの気持ちだったと思います」

復興が本格的にスタートした4月25日、工場の煙突に、大きなこいのぼりがはためいた。「Power of Nippon」「今こそ団結、石巻」と手書きんで大きく描かれていた。これはこれは工場からのメッセージだった。「見てくれ!俺たちもここで頑張っているぞ」と。


◆ 『紙つなげ!彼らが本の紙を造っている 再生・日本製紙石巻工場』 佐々涼子、早川書房、2014/7

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