■ 『丹下健三』  戦後日本の構想者 (2016.7.15)






いま(2016/7月)、東京都は新しい知事の選出をめぐって混乱のとき。連日テレビに映しだされるのは、丹下健三の設計した東京都庁だ。ツィンタワーというのか豪壮な超高層ビルである。双子ビルの谷間を、もうひとつの低層ビルがうめている様子が、どこかギロチンに見えるのは自分だけか?


本書は、建築家・丹下健三の業績を概観するものだ。もちろん単なる「天才伝説」ではなくて、鋭い考察もある。例えば、70年代以降、アラブの王族らは最新兵器を購入するように、丹下のデザインを買い漁ったという。対照的にアメリカでは環境派の反対を受けて丹下のデザインはほとんど実現しなかった。非西洋の敗戦国に属する丹下の近代建築がなぜアラブやアフリカへ導入され大規模にコピーされ続けたのか、今後の研究対象だと。

1970年代、日本経済はオイルショックを引きずり長期の不景気に沈んでいた。都知事に新しく就任した鈴木俊一は、都庁を新宿に移転することを決断する。丹下はツインタワーをベースとし、上部を45度ずつ振った複雑な形状を構想する。経済合理的なオフィスビルとは異質の、強いシンボル性を放つ巨大公共建築を実現した。新都庁の竣工は1991年。

1957年に竣工した旧都庁も丹下の設計だ。戦後の混乱期を脱した経済復興期のとば口だった。この都庁舎は、竣工前から厳しい批判にさらされた。ピロティが贅沢ではないか、外周に壁がないので地震に弱いのではないか、等々。壁のない構造設計について、丹下はエレベーターや階段室のコア部分を建物中心部に集め周囲を耐力壁で囲んでおり、構造的に問題ないと説明している。

この都庁建設は、近代都市特有の人口動態に即した都市建築のプロトタイプを生み出しと評価された。しかし50年代には、建築家の構想力が下部構造の可能性を引き出すには、、まだまだ戦後日本の建築産業は実力不足であり盤石ではなかった。

1964年の東京オリンピックは、丹下健三の名を一躍世界にひろくアピールした大会だった。丹下はオリンピック水泳競技場として国立屋内総合競技場体育館を、バスケットボール競技場として附属体育館を完成させた (現在の名称:国立代々木競技場第一・第二体育館)。

これらの建物の配置は巴型の平面である。大地震や火災発生の緊急時に、観客がスムーズに避難できることを目的としている。屋根は吊り屋根構造を採用した。吊り橋の原理を応用。主体育館では126メートル離れた2本の柱に鉄製のメインケーブルを渡し、直交方向に複数のサブケーブルをスタンド端部に固定している。屋根面は鉄板で覆う。コンクリートの剥落の心配がないこと。空調のしやすさがメリットだ。

建築の屋根構造として、100メートルを超えるケーブルを用いるのは前代未聞の取り組みだった。屋根の荷重が変化するたびに2本のメインケーブルの撓む量が変化し、困難な施工が強いられる。そこには当時の日本の建設産業のさまざまな技術が投下された。吊り構造はそもそも橋梁技術であり、鉄板で覆われた屋根面はタンカーに用いる造船技術であった。清水建設や大成建設などのゼネコンや請負企業の技術者が、献身的な努力をはらい工事現場を取り仕切った。当時の日本の技術者の中間層の厚みが、この建物を工期内にキチッと仕上げる大きな力になった。

1964年7月、幾多の困難を越えて竣工する。日本の近代建築が、意匠・構造・設備を有機的に統合できるだけの水準にあることを世界に示したのだ。当時のブランデージIOC会長は、国立屋内総合競技場が選手たちの力をかき立てて多くの世界記録が生み出されたこと。ここを訪れた人々や水泳競技を観戦できた人々の記憶の中に国立屋内総合競技場がはっきりと刻み込まれたことを指摘した。

まさに国立屋内総合競技場は、高度成長のシンボルの創造だった。機能を満たす建築にとどまらず、象徴としての建築となって輝きを放った。吊り屋根の作り出す、ダイナミックなフォルムがとくに印象的だ。あの勇姿は、建設から50数年を経た現代においても色あせていない。



◆『丹下健三 戦後日本の構想者』 豊川斎赫(とよかわ・さいかく)、岩波新書、2016/4

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