■ 『鄭和の南海大遠征』 インド洋を横切る大航海  (2010.4.12)



ヴァスコ・ダ・ガマが、ポルトガルのリスボンを出港し喜望峰をまわりインド西岸のカリカットに到達したのは1498年のことである。その90年近くも前に、中国明代の鄭和(ていわ)は大艦隊を率いてカリカットからさらにはアラビア半島にまで航海を繰り返していたという。南シナ海を出てマラッカ海峡をぬけインド洋からアラビア海へと遙かな大航海である。

鄭和は、明帝国が成立して3年がたった1371年に、雲南行省の昆陽にイスラム教徒(色目人)の移住民の子として生まれた。明軍の雲南侵入の戦いで、少年の鄭和は明軍の捕虜となる。色目人は漢民族の敵と見なされ徹底した報復策から、種族を絶やすためにとの現地指揮官の独断で宦官にされる。

永楽帝の下に届けられた鄭和は、次第に頭角を現し内戦「靖難の変」で大きな軍功を上げる。このとき既に29歳。身長180センチの威厳ある風貌、優れた弁舌、機敏な判断力と行動力を備えていた。指揮官としての卓越した素質の持ち主であった。数々の戦功が評価され役所の長官・太監に任ぜられた。

明初以来の農業振興策が成功を収め、永楽帝の時代は国力が充実した時期であった。永楽帝は対外貿易を抑制しながらも、一方では積極的に外征を繰り返し朝貢貿易による国威発揚をめざした。鄭和に率いられた外征航海は前後30年近く7回に及んだ。第1−3回の遠征ではインド西岸のカリカットをめざし、第4−6回の遠征はペルシア湾の入り口のホルムズをめざした。

艦隊は各地で明帝国の勢威を示す外交儀礼を繰り返した。また艦隊は、外交・交易・戦闘など多様な機能に対応できるように組織された複雑な性格をもっていた。艦隊の中心には60余隻の大型艦船。周囲に100隻程度の小船――糧船、座船、戦船、馬船などの補助艦が加わっていたと想定される。ほぼ2万7000人程度の乗員規模だ。


中核となる巨艦は宝船(ほうせん)と呼ばれた。長さが約120メートル、幅が約51メートルと横幅が広い。多くのマストと帆をもち、これらの操作には200〜300人の乗組員を要したという。大きさには諸説があるが、排水量は約3100トンと推定される。各地の支配者に皇帝からの賜物として与える諸貨物、支配者から皇帝に献上された貨物などが搭載された。大量の武器も装備されて軍事的能力も兼ね備えていた。

第4回の南海遠征(1412年)からは従来の航線をさらにインドの西に延ばし、ペルシア湾のホルムズなどのイスラム商人の商港を訪れ招諭を行うよう命じられた。航海は新時代に入りアラビア海にまで及ぶことになった。本隊はカリカットから陸に沿ってホルムズに向かう。一方分遣隊はモルジブ諸島からアラビア海を横断して長躯アフリカ東海岸モガデシオに達する。そこからアラビア半島の主要港を歴訪しホルムズに至った。

鄭和艦隊の航海では、宋代から改良が続けられた航海技術が駆使された。針路は羅針盤によった。位置の確認には、@重りを付けた縄による深度の測定、A沿海地域の景観の判断、B星の高度の観察による緯度など3つの方法があった。@Aの方法は、海岸線に沿って航海する際に役立つ伝統的航法だ。マラッカ海峡までは、この航法が用いられた。

マラッカ海峡を越えて茫洋としたインド洋に出ると、伝統航法は役に立たない。イスラムの船乗りが用いてきた、星の高度を測定して緯度を測る方法と羅針盤で方位を探る方法を併用したという。


◆『鄭和の南海大遠征』宮崎正勝、中公新書、1997/7

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