■『<辞書屋>列伝』 言葉に憑かれた人びと   (2014.2.26)






辞書作りは、ときには数十年という長い年月を要する仕事である。辞書を作る人は、学者というよりも職人に近い。商人としての才覚も求められる。ある言語学者は、このような人々を、「ことばの語源を探し求め、その意味をつまびらかにすることに余念がない無害な努力家」と定義している。著者は、愛情をこめて、「辞書屋」と呼んでいる。

なかでも、『西日辞典』をめぐる照井亮次郎のエピソードは、明治人の気概を感じさせ印象深い。『言海』は大槻文彦が著した日本初の近代的な国語辞典。なんと言っても、高田宏さんの著した『言葉の海へ』を読むべきだろう。


本書には次のような数々の辞書屋のドラマが収められている。著者は、辞書編纂者の網羅的な列伝ではないと断っている。
@『オックスフォード英語辞典』(OED)――ジェームズ・マレー
A『ヘブライ語大事典』――ベン・イェフダー
B『カタルーニャ語辞典』――ファブラとアルクベー
C『言海』――大槻文彦
D 明治の知識人に大きな影響を及ぼした辞書屋――ウェブスターとヘボン
E『西日辞典』――照井亮次郎と村井二郎
F『スペイン語用法辞典』――マリア・モリネール
G『カタルーニャ語辞典』……

『オックスフォード英語辞典』(OED)は、英語の語彙すべてを収録する、という壮大な意図のもとに企画された。全20巻で収録語数は41万語を超える。ジェームズ・マレーはOEDの編纂責任者をもっとも長く務め、育ての親といっても過言ではない。用例を収集するリーダーとして異彩を放ったのはマイナー博士というアメリカ人である。彼をめぐるエピソードはびっくりするようなものだ……。

明治黎明期の日本の辞書は外国語の辞書をお手本として作られた。大きな影響力を持ったのが、ウェブスターの辞書とヘボンの辞書であった。
ウェブスターは、1758年ニューイングランドに生まれた。『英語文法教本』の出版で成功する。1800年に辞書執筆を開始。およそ25年かかり、1825年ウェブスター67歳の年に『アメリカ英語辞典』は完成した。約7万語を収めた大部の辞書をまったくの独力で作り上げた。この辞書は大好評を博し、ウェブスターが辞書の代名詞となった。

ヘボンは日本で最初の本格的な和英辞典『和英語林集成』を完成した。ヘボン式ローマ字は、この辞書の副産物。ヘボンは、1815年にアメリカに生まれた。大学で医学を修め医者となる。病院で成功したが、これを売り払い大金に代え、1859年来日する。眼病の治療をきっかけとして、名医という評判が定着した。

ヘボンの来日の目的はキリスト教の福音をもたらすことであった。具体的な方策は、和英辞典の編纂と聖書の和訳。診療以外の時間はひたすらことばの収集に努め辞書作成をすすめる。1864年には脱稿し1867年に上海で印刷した。完成した『和英語林集成』は700ページ、見出し語約3万、厚さ5センチの大著であった。

『西日辞典』(右文社)は日本で初めての本格的スペイン語辞書。メキシコで編まれ、1925年に出版された。本文1107ページで収録語数は約3万。この辞書には、明治時代にメキシコに移民していった人々のさまざまな怨念が込められている。
榎本植民団とは、日本人居住地への継続的殖民を目指し、榎本武揚が提唱したもの。1897年には、メキシコ南部に、コーヒー栽培を目指した36人が横浜から出発した。現地に到着後、日本政府の調査の杜撰さが露呈し、移民団はわずか3カ月で崩壊する。移民たちの多くは、人夫や工夫などの仕事を求めて各地へ散っていった。

後に残ったのは照井亮次郎らとわずか数名。照井が強烈なリーダーシップを発揮し、ほとんど社会主義ともいえる協同組合を結成する。1901年に結成された組合は順調に発展し、農業のみならず、商業などにも事業を拡大する。照井は、当初から教育資金を利益のなかから積み立て、学校を建設する。もうひとつの悲願は、スペイン語の辞書を作ることだった。照井は日本から、同志社大学で英語を学んだ村井二郎を呼び寄せた。村井はスペイン語に不案内だったもの、西英辞典を取り寄せ、英語の部分を日本語に訳すことで辞書を辞書を作り上げる。脱稿から8年を要し1925年に出版された。照井亮次郎は、会社解散後、各地を転々、薬屋を経営するなどした後、1930年病死。56歳だった。

本書の著者・田澤耕さんも辞書屋である。終章には、自身が取り組んだ、『カタルーニャ語辞典』の出版物語がまとめられている。大学の社会学部を卒業し、金融に関してほとんどなんの専門知識もないまま、銀行に入りスペインに派遣される。そこでカタルーニャ語との出会い、辞書作成の情熱がかき立てられる。
辞書というものは、理論だけではできない。辞書に大した理論などない。辞書を作るうえでもっとも重要なのは執筆者の言語能力、言語感覚である、と著者は結論づける。


◆ 『<辞書屋>列伝 言葉に憑かれた人びと』 田澤耕、中公新書、2014/1

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