■『ローマ五賢帝』 帝国最盛期の光と陰  (2014.2.7)



ローマ帝国の最盛期は、いわゆる「五賢帝時代」である。紀元96年のネルウァ帝の即位に始まる約100年間。歴史家はいう、「1世紀近くにも及ぶ幸福な時期にあって、帝国の統治は、ネルウァ、トラヤヌス、ハドリアヌス、両アントニヌス諸帝とづづく傑れた君徳と能力とによって導かれてきた」と。

五賢帝時代の紀元2世紀前半には、帝国統治のシステムは整備され、伝統的なローマ社会からは、統治に必要な人材が安定的に供給された。また「養子皇帝制」が政治的安定の基盤にあると言われてきた。有徳の皇帝が連続して統治し帝国が安定したと。元老院の有能かつ徳望のある人物が選ばれて養子となり皇帝位を継ぐ慣行があったというのだ。この制度のために皇帝位を争う争乱が起こらず、また世襲による皇帝政治の悪化も阻止された。

この「養子皇帝制」は実際には見いだし難いものであったと著者はいう。平和に見えるこの時代でも皇帝位継承は常に紛糾したと。静穏のうちに帝位が継承された唯一のケースでも、それは世襲に等しいものであったのだ。本書では、プロソポグラフィー的手法を採用し、五賢帝時代の影の部分を読み解いたそうだ。プロソポグラフィーとは、ギリシア語のプロソーボン(顔などを意味する)と、グラフィアが合わさった言葉。人物記述的方法と言われる。生没年や出身地、家族構成や親族関係、職業や経歴、学歴、宗教などの個人情報を集め、伝記的資料の集成に基づいてその時代の政治や社会のあり方を考察するものだ。

五賢帝最初のネルウァが紀元96年に即位した。養子皇帝制の最もはっきりした例として注目されたのが、このネルウァのトラヤヌス養子であった。しかし、実質的にはトラヤヌスが軍事力を背景にして政治工作で政権を手にしたのだ。ネルウァが死去した直後、トラヤヌスは辺境地帯を視察し直ちにローマには帰ってこなかった。トラヤヌスにとって、無事安全にかつ皇帝としての権威をもって首都に帰還するには少しばかりの時間が必要だった。

トラヤヌスは最良の皇帝と言われる。新人登用策に特徴があった。皇帝の様々な政策や軍事行動の推進者として、比較的若い元老院議員たちが中央政界で次第に重きをなすようになった。トラヤヌスは政界の世代交代を現実の情勢に充分適応できるように進めていった。スペイン出身者を偏重することもなかった。彼は積極的に領土を拡大した。治世下でローマ帝国は最大版図を達成した。ダキア(ルーマニア)を併合し地中海周辺地域や北部国境地帯を征圧した。首都や属州の安寧にも心を砕いた。ローマ市には広大な広場を建設し図書館や公会堂を隣設させた。

トラヤヌスの後継者となったハドリアヌスは、行政・軍事・司法の各方面における業績が高く評価される。広大なローマ帝国の領土をくまなく巡幸し、首都やイタリアだけではなく、属州にも軍事的安定と経済的繁栄に加えて、高い文化的背景を持たせようとした。また、文学・芸術を愛する私人としても高く評価された。ハドリアヌスは、領土拡張よりも領土内の充実に努めた。無謀な征服活動をやめて、帝国領内の諸属州の安定と繁栄に務めた。首都ローマの民衆の人気を取ることも忘れなかった。剣闘士競技などの娯楽をふんだんに提供した。ハドリアヌスは休みなく働いた。軍事や司法の面でも多くの改革的措置を行い、軍紀を改善していった。

ところが、ハドリアヌスは評判が悪く、危うく暴君のレッテルを貼られるところであったという。治世の初めに、前帝の時代に活躍した元老院議員4名を、ハドリアヌス暗殺の陰謀者として処刑したことに因るらしい。この処刑は、新政権の強力な推進者たちによって行われた政治的粛正であったのではないかとの疑惑だ。

ハドリアヌスの生涯は起伏の連続であった。非力であった即位当初には不透明な元老院議員処刑事件で、疑惑と憎悪を招いた。晩年にはスペイン系勢力に厳しい手段をとった。光と陰の両面を持ちあわせたハドリアヌスの生涯は、ローマ皇帝権の本質がいかなるものであったのかを改めて考えさせる。


◆『ローマ五賢帝 「輝ける世紀」の虚像と実像』 南川高志、講談社学術文庫、2014/1

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