■ 『ベートーヴェンを聴けば世界史がわかる』  模倣衝動とは  (2019.2.3)







本書が試みているのは、クラシック音楽の歴史が「模倣衝動」によっていることの証明かと思われる。戦前の思想家・北一輝によれば、人間の歴史とは、上が実現していることを下が模倣していくプロセスだという。日本の場合だと、いちばん上に天皇がいるわけだ。このような「模倣衝動」こそが人間社会の起爆剤だと。クラシック音楽もこの衝動によって市場を拡大し歴史をつなげてきたと著者・片山杜秀さんは主張する。教会や貴族の音楽がそれに憧れる市民によって模倣される。最初に模倣を行った上層市民を、今度は中層市民が模倣することを繰り返してきたのだと。



クラシック音楽は中世のグレゴリオ聖歌をルーツとしている。その後、キリスト教的世界観に大きな影響を受けてきた。そこにはすべてを統べる神の秩序が存在し、さらに高い次元の音楽としてハルモニア・ムンディ(宇宙のハーモニー)があると考えられていた。16世紀にはルターによる宗教改革が始まる。ルターは聖書をドイツ語に訳し普及に努める。識字率がまだ低い時代に、教えを広めるのに力があったのは、説教であり音楽だった。

ルネサンスから宗教改革を経てクラシック音楽の舞台は世俗の世界へと広がる。18世紀には経済の中心地がオランダやイギリスに移る。ロンドンは市民社会が真っ先に進んだ都市であり、市民がお金を出して音楽を聴いて楽しむという現在の演奏会のスタイルが発展していた。ヘンデル(1686ー1750)はロンドンに渡った後半生には《メサイア》に代表されるオラトリオの作曲に力をかたむける。ハイドン(1234−5678)はロンドン時代には、曲を分かりやすくしメロディーもキャッチーにした。曲の特徴を明快にして市民層が聴いても、あれは《時計》交響曲だと分かるようにしたのだ。

ドイツやオーストリアなどの小さな領邦国家では18世紀後半になっても領主たちの力が強く王侯貴族の支配が続いていたが、宮廷音楽家としての就職先は次第に先細っていく。モーツァルト(1756-1791)などは、就職難の波をまともに受ける。生涯の大半をヨーロッパの宮廷をまわる就職活動に費やしたという。晩年には、フランス革命が起き王朝そのものがなくなってしまったのだ。

やがてベートーヴェン(1770-1827)が登場する。音楽はベートーヴェンの前と後ではまったく違うものになったと言われる。楽曲のスタイルが変わり美意識の革命が起きる。市民という受け手――共鳴層があったからこそ大胆な変革が可能だったのだ。
ベートーヴェンの音楽の特徴は3点に集約されよう。@わかりやすさ、Aうるさいこと、B新しもの好き。対象は市民(ブルジョアで)――いわば、カラオケ好きのおじさんおばさんが市民の正体か。市民にアピールするためには明快で覚えやすいメロディをどんどん投入しなければならない。それを恥も臆面もなくできたのがベートーヴェンだった。

ベートーヴェンの第九「歓喜の歌」こそ、市民の音楽の理想だという。口ずさみやすい歌をどうしても自分で歌いたくなる。練習すれば市民でも簡単に歌うことができる。誰もが参加できるように作曲してあるのだから。市民の歓喜、市民の連帯こそが新しい美の基準なのだという宣言だ。

音楽形式としてはソナタ形式の完成があった。主題が複数になり、それらを対照させ、ときに葛藤させる。構成も多元的で有機的かつ劇的な多楽章となる。第1楽章は完全にケリをつけるようには終わらない。本当の大団円は最後の第4楽章にとっておく。第2楽章と第3楽章では、活気のある踊りと落ち着いた歌を対にして示す。そして第4楽章で改めて統合する。ソナタ形式はハイドンがある程度用意したが、これを存分に使いこなして、ピアノソナタや弦楽四重奏曲、さらに交響曲まで書いて、世界をひとつ仕上げたのはベートーヴェンだった。

ベートーヴェン以降のロマン派の本質は、「旅」にあるだろう。空想をめぐらせ現実には存在しない夢を求めていく。メンデルスゾーン(1729-1786)の交響曲第3番《スコットランド》や第4番《イタリア》とか。いずれも演奏旅行で着想を得たもの。最もロマン主義的な旅を象徴しているのは、シューベルト(1797-1828)の連作歌曲集の《冬の旅》だ。

娯楽としてクラシック音楽の頂点に君臨したのがオペラである。さらに、手の届かないものへの渇望と、ナショナリズムを強力に結びつけた作曲家がワーグナー(1813−1883)だ。ワーグナーが見出したのは「民族」だった。特定の地域の文化や伝統、民族性に根をおろしたもの、神話や伝説などフォルク(民族、民衆)に支えられきた土着的な文化であると考えたのだ。
《ニーベルングの指環》をはじめ北欧神話をベースにした神話や伝説に材をとった作品を次々とつくる。そこには、ゲルマン民族という血のアイデンティティーがはっきりと示されている。ワーグナーが目指したのは、緊密で有機的に統一された世界の総体を表現すること。ワーグナーは、ベートーヴェンの緊密さでオペラをつくろうと考えた。さらに曲だけでなく、劇の台本、歌の歌詞も自分で手がけ、それを「楽劇」と称した。

クラシック音楽の歴史は数百年にわたる。現在Dなどで聴かれているレパートリーの大半は19世紀につくられたものである。ベートーヴェンからワーグナーの時代に、オーケストラの編成や劇場の構造、聴衆の姿勢などクラシック音楽をめぐる様々なスタンダードが、形成されていった。19世紀は市民の時代だった。多くの人々が政治、経済に参加し、主役となっていった。20世紀になると、指揮者・演奏者が主役の時代に入っていく。名曲をどのように見事に演奏し、新たな解釈を提示して教養ある市民たちを満足させられるかということだ。


◆ 『ベートーヴェンを聴けば世界史がわかる』 片山杜秀、2018/11、文春新書

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