■ 『反省記』 ビル・ゲイツと成功をつかんだ (2021.1.27)
それにしても、「反省記」とは、辛辣なタイトルである。著者・西和彦は、パソコン黎明期に大活躍した、コンピュータ・エンジニアである。マイクロソフトの創業者であるビル・ゲイツとともにパソコンの新時代を牽引した。それが、いつのまにか、ビル・ゲイツとなぜか袂を分かち別々の道を歩んだとは。
本書は西の"半生記"でもあるようだ。前半は、いわば「獅子奮迅」大活躍の記録。後半は、マイクロソフト退社後の軌跡である。ここを読み続けるのはつらい。あまりにも幼稚な経営、周囲の裏切り、……。失敗記録のファイリングだ。グチも聞こえてくる
――マイクロソフトにいたときに、ビル・ゲイツが大反対した半導体事業への参入など主張せず、「いい子」にしておれば、……と。
"反省記"にはパソコン登場から"半世紀"とかの意味もあるのかな。1979年には、西が開発にリーダーシップをとった日本初の8ビット・パソコンNECのPC-8001が発売された。空前の大ヒット商品となる。日本にも本格的なパソコン時代が到来したのだ。BASICには、NEC独自のものではなく、マイクロソフト製品を採用した。それに、パソコンでは初となる通信機能を搭載した。パソコンを大型コンピュータと通信でつなぐことができるのだ。将来のパソコン通信の基礎となる機能だった。
その後、西はハンドヘルド・コンピュータなどの開発に取り組む。彼の構想したノート・パソコンは、二つに折れるスタイルで、手前にキーボード、後部にディスプレイをもつ。世界初のノート・パソコンだった。この形態は今や全てのメーカーが採用しているスタンダードだ。この時期、日本メーカーはビジネスの最先端を走っていた。日本発のイノベーションが世界に変化を促していた!
マイクロソフトは世界に冠たる超巨大企業へと成長した。マイクロソフトが帝国としての礎を築く、最初のきっかけとなったビッグ・ビジネスの現場、そこには、ビル・ゲイツとともに西がいた。最初の出会いは、雑誌『エレクトロニクス』のバックナンバー記事がきっかけだった。「マイクロソフトという会社がインテルのマイクロプロセッサー用のBASICを開発している」とあった。その日のうちにビルに国際電話をかけ、1978年6月のカリフォルニアで会う約束をした。
IBMは1981年にパソコン界への参入を決定する。IBMは大型コンピュータで世界の70%のシェアを誇っていたものの、新たに勃興したパソコン市場には完全に出遅れていた。進出にあたり、ソフト・ハードともに可能な限り外部調達でまかなうことにした。OSについてIBMはマイクロソフトを訪ね打診する。ビル・ゲイツはその場でデジタルリサーチ社を紹介し電話をするが相手は不在だった。
IBMがデジタルリサーチ社を翌日訪ねるも不在だった。IBMは、お鉢を再びマイクロソフトにまわす。マイクロソフトにビッグチャンスが来た!重大な決断を迫られた。幹部(ゲイツ、アレン、パルマー、それに西の4人)が協議。このビッグ・チャンスをみすみす逃す手はないと全員一致。しかし大きな不安があった。16ビット用OSを3カ月で作れるのか?
会議で思わず西は叫ぶ、「やるべきだ!絶対にやるべきだ!」と。西には勝算があった。シアトル・コンピュータ・プロダクツ社が16ビット用のOSを開発しているのを知っていたから、それを買えばいいと。大幅な改造が必要だが、ゼロからより絶対早い。これで会議の空気がガラリと変わる。さっそく「シアトルDOS」を手に入れる。これに改良を加えて苦闘のすえMS-DOSが誕生した。
MS-DOSを搭載したIBM-PCは1981年9月に発売された。たった4カ月の超スピードで完成した。発売と同時に爆発的な人気を呼び、アップルを抜き去り2年後には首位に立った。世界中のパソコン・メーカーはIBMと互換性のあるパソコンの製造を開始した。MS-DOSが新時代の世界標準となる。これが、マイクロソフト帝国の礎石となった。もしあのとき、MS-DOSがIBM機に採用されなかったら、パソコンの歴史の分水嶺となる伝説的な一幕だった。
ビルゲイツとの出会いで僕の人生は変わった。たくさんの刺激とインスピレーションを、お互いに与え合うことができたと、西は言う。深刻な対立を生んだのが半導体だった。当時マイクロソフトはいくつもの半導体メーカーと取引をしていたが、ソフト・メーカーの要望を反映させる余地はほとんどなかった。西は半導体開発事業に参入すべきだと主張するが全員が否定的だった。当時の盟友・インテルと競合する半導体事業に参入するべきではないと考えていたのだろう。
MSXをきっかけに、西はヤマハと半導体事業に参入。これがビルとの関係にヒビが入る大きな要因となった。1985年夏以降には、さらに深刻な事態へと突入する。当時マイクロソフトは、米国店頭証券市場への上場を目論んでいたが、極東での100%子会社が、条件に明記されていた。西はアスキーを手放さなければならないが、仲間を裏切ることはできなかった。ビルとの交渉が続いたが、ついに大げんかで決裂した。1986年1月ゲイツの執務室に呼ばれ、解雇を言い渡される。「わかった」とだけ言って西は即座に部屋を出た。…………
◆ 『反省記 ビル・ゲイツとともに成功をつかんだ僕が、ビジネスのビジネスの"地獄"で学んだこと』 西和彦、ダイヤモンド社、2020/9
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