■ 『クアトロ・ラガッツィ』 大航海からローマを歩く4人が見える (209.3.24)
大航海時代の真っただ中、1582(天正10)年、イエズス会の巡察師に率いられた4人の少年使節が、ちっぽけな帆船に乗りこんで、ローマをめざして日本を発った。大洋をきりわけイベリア半島をわたり2年を要してついにローマに至る。袴をはいて刀を差し晴れがましい様子で少年たちは教皇に拝謁する。
この壮大な計画をたてて実行したのは、イエズス会巡察師のイタリア人ヴァリニャーノである。ヴァリニャーノは日本と中国を西欧とは異なっているものの同じように高い文明をもった国として尊敬していた。東西の文明の相互理解をめざしたのがこの使節派遣の大きな目的だった。
出発から8年後に彼らは日本に帰り、西欧の知識・文物と印刷技術を日本にもたらす。しかし、当時絶頂を誇りキリスト教を保護した信長も今は亡く、時代は急変する。迫害のなか、4人は運命に翻弄される。病死する者、殉教に倒れる者、棄教した者もいる。物語は、少年使節のひとり(すでに60歳になっていた)の苛烈な死と、マタイ伝からの引用句で終わる。感動的だ。
著者の若桑みどりさんはイタリア美術史が専門でもある。惜しくも2007年に亡くなっている(71歳)。単行本は2003年に刊行されており、今思えば壮大な遺書だったのか。若桑さんは、ローマの輝く空の下にいた4人の少年のことを書くことは、まるで私の人生を書くような思いであったという。彼らは、描かれたばかりのミケランジェロの祭壇画を仰ぎ見、青年カラヴァッジョが歩いた町を歩いたのだ。
大航海時代以降の世界では、一国の歴史がもはや一国史ではとらえることができなくなった。世界経済と世界布教というふたつの大きな波が16世紀の戦国時代の日本にも怒濤のように押し寄せてきた。イエズス会のザビエルが鹿児島に上陸した1549年から、江戸幕府が第1次鎖国令を出す1633年までの八十余年、日本はまさに「キリスト教の世紀」を迎えていた。そのときほど日本が世界的であったことは明治以前にはなかった。そのシンボルとして少年使節の派遣があった。
徳川家康は関ヶ原を制し1603年に征夷大将軍に任ぜられた。1614(慶長18)年には、キリシタン根絶の「伴天連追放分」を発する。そして鎖国に至る。幕府はポルトガル・スペインというカトリック国とイギリス・オランダという新興新教国の世界覇権争いの余波を受けて、17世紀半ばの世界情勢の大きな変動を感じとっていた。仮想の外敵を作り上げ、国民をひとつに引き絞るために、キリシタンは血の制裁を受けたのだ。ひとつはスペイン・ポルトガル帝国のスパイであるという理由で。もうひとつは国体の敵であるという理由である。
◆ 『クアトロ・ラガッツィ』 (上・下) 若桑みどり、集英社文庫、2008/3
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