■ 『ペリー提督』 海洋人の肖像 (2015.7.27)
ペリーが黒船艦隊を率いて江戸に来航し幕府に開港を迫ったのは恫喝外交だったのだろうか。本書を読むと、ペリーは根っからの海軍人であり、万全な準備を行ったうえで、剛直に日本遠征を計画・実行したことがわかる。
ペリーは海軍一家の三男坊として、1794年にニューポートに生まれた。14歳で海軍に身を投じ、1841年にはニューヨーク港内の軍艦の司令官として提督の称号を得た。当時、米国海軍は変革の最中。ペリーは蒸気艦の導入にきわめて熱心で、「蒸気船海軍の父」という尊称が文献に残っているそうだ。
太平洋では鯨油を求めての捕鯨船の進出、対中国貿易の伸長、さらには欧州諸国の極東への勢力拡張がみられ、蒸気船による交易の時代が予見されていた。石炭補給基地が必要不可欠である。英国はすでに喜望峰経由の各地に補給港を確保しつつあった。米国は北米西岸からシナ大陸間の遠大な距離に適当な石炭補給港を設置しなければならない。ハワイと中国との中間に存在する日本の港を開かせる必要があったのだ。その認識が米国政府や民間の海事関係者に強く意識されるようになっていた。
米国政府は日本に開国を求めてすでに何回か使節を送っていた。
(1) 1832年。ジャクソン大統領の時代に、ロバーツ提督を戦艦ピーコック号とともに極東に派遣した。途中のマカオで提督が客死し来日の目的は果たせなかった。
(2) 1846年。ポーク大統領はビドル提督をコロンブス号、ヴィンセンス号とともに派遣した。大統領の親書を携えて日本にとっては最初の正式な使節であった。しかし強硬な日本側の態度に米国側はなすすべもなかった。親書の受領さえ拒まれ追い払われたのだった。
(3) 1851年には、ペリーの前任のオーリック提督が新鋭蒸気艦サスケハンナ号に座乗して出発した。託された大統領の書簡には、遭難船員の保護・日米修好と貿易・貯炭所の建設が盛り込まれていた。しかしオーリック提督は部下の艦長と不和となり寄港地でのトラブルなどもあって、マカオに到着したところで解任された。
(4) ペリーが米国東洋艦隊の司令長官としての正式に任命されたのは1852年3月のこと。ペリーが日本に対して剛直な力を誇示し実行したのは、前回のビドル使節に対する、日本側の外交的には非礼ともいえる仕打ちへのリアクションだったのだろう。
今回の日本遠征に際しペリーは蒸気軍艦の建造を根気強く提言し続けた。艦隊として5隻から12隻に増強した規模を求めた。ペリーは訪日の目的達成手段として、「混乱を起こさせる」ことこそ自分のなすべき第一の戦術としていた。艦隊を日本人に見せつけて恐怖心を起こさせるために必要だったのだ。さらに、ペリーは、航海、統率、情報収集、交渉といったあらゆる分野にわたるきわめて緻密で周到な準備を重ねた。日本
に関して欧米で出版されている主要な書物はすべて集めた。オランダ、英国からはそれまで調査された海図、水路誌の類いを購入した。
1852年11月24日、ペリーは蒸気艦ミシシッピー号に座乗してただ1隻で極東に向かった。遠征計画に対する、ニューヨークの財界や一般世論の理解度はまったく乏しいものだった。新聞もほとんど無視していた。旗艦サスケハンナ号とプリマス、サラトガの2隻はすでに上海にいた。残る8隻は準備が整いしだい艦隊に加わることになっていた。ペリーには大統領の日本への親書と信任状のほかに、宛名が白紙のまま合衆国の印綬をおした信任状が与えられた。東洋諸国で必要に応じてペリー自身の判断で使う権限を与えたものである。
ペリーは艦隊用の石炭輸送のために、ニューヨークの船会社と特別に契約しインド洋のモーリシャス諸島などに専用船を待ち受けさせておいた。蒸気艦の石炭補給問題は、米国艦隊につねにつきまとい日本遠征時の隠れたキーワードであった。
上海に到着すると、東洋艦隊の旗艦はミシシッピー号からサスケハンナ号に替わる。黒船4隻の艦隊は1853年7月8日の早朝に伊豆半島沖に姿をあらわし江戸湾へと向かう。浦賀の湾口に着いたのは午後4時ごろ。4隻はそれぞれ乗組員を戦闘配置につかせて、水深を測りながら浦賀の港口にゆっくり近づき錨を入れた。
幕府との交渉が始まると、成り行きはペリーの予測した通りの展開になった。ペリーは、幕府得意の引き延ばし戦術を封じ込めるために心理作戦をとった。「来年の春に、回答を受け取るために、再度来航するであろう」と、強引に一方的に文言を付け加えたのである。
ペリーは、春を待たずに危険な冬期の季節風の時期をついて日本を再訪問するという大胆な挙に出ることになった。ロシア帝国のプチャーチン提督が艦隊をひきいて条約締結のために日本へ派遣されており、ペリーとの協力を申し入れてきたことが契機でもあった。
1854年3月31日に締結された神奈川条約によって下田と函館の2港が開かれることになった。神奈川条約(日米和親条約)の内容は、@下田、函館両港の米国船への開港、A漂民および渡来者の国際的慣習に準じた取り扱い、B18カ月後に下田に米国領事の駐在を許可する、の3項である。2年後の1856年に総領事としてタウンゼント・ハリスが下田に着任し、58年に日米修好通商条約が結ばれる。さらに2年後の1860年に咸臨丸が太平洋横断し正使の訪米により批准書が交換された。
ペリー艦隊の日本遠征への評価は決して単純なものではなかった。日本と交易を開くことへの消極論は南北戦争前後の不安定な米国の世論の一部に根強く残った。ペリーが『日本遠征記』の執筆を終えたのは1857年の12月。帰国から約3年の歳月が流れていた。ペリーは全精力を使い果たしたかのようにそのわずか3カ月後に、ニューヨークで卒然と世を去った。享年 63歳。
◆ 『ペリー提督 海洋人の肖像』小島敦夫、講談社現代新書、2005/12
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