■ 『つじつまを合わせたがる脳』 錯覚はつじつま合わせの結果 (2017.3.8)






視覚、聴覚、触覚などには個別の感覚器官――眼、耳、皮膚が存在する。外界から得られた情報は、それぞれ独自の脳内部位で処理される。しかし、外界を総合的に理解するためには、複数の感覚器官から得られた、ときに食い違う情報をうまく統合し、つじつまを合わせることが必要となるという。

本書のキーワードは「つじつま合わせ」である。われわれの脳内では、つじつま合わせが頻繁に生じているが、ほとんど気づかずに日常生活を送っている。感覚情報が不正確であっても、それらを統合することで最も妥当な一つの解――つじつま合わせによって――を迅速に導き出すことができる。互いに食い違う情報に接しても、脳は混乱することなく、うまくつじつまの合った解を導き出し次の行動につなげている。錯覚との違いはあるのだろうか?



錯覚」とは現実の物理量と異なって知覚される現象のこと。つじつま合わせと錯覚は近い関係にある。著者によれば、人間の情報処理の特質は「つじつま合わせ」にあり、この結果の現象として観察されるのが「錯覚」であるという。錯覚が、人間の能力の弱点として説明されがちなのは残念なことだという。

現実世界では、情報源が同じだとすれば視覚情報と聴覚情報に食い違いがあることは少ない。腹話術効果にしても自然環境で生じる可能性は低いだろう。情報が伝わる過程で雑音が加わっているときには、食い違いが生じることになる。そのような場合には、統合した解釈をするほうが妥当なのだ。視覚情報と聴覚情報のみでは結論が異なるのに、瞬時に適切なつじつま合わせをすることで、さまざまな雑音に耐えられる仕組みになっている。

入ってきた情報を、見落とす場合がある――「選択の見落とし」とか「変化の見落とし」というもの。気づかないならば、変化のない連続的な日常として、つじつま合わせをしておくことで、視覚情報処理をサボることが可能になる。一度に取り込める視覚情報はわずかであり、網膜に映っていても捨て去られている視覚情報がある。むしろそのような脳の仕組みになっているのに、自分では大丈夫だと錯覚しているとも言える。

視覚情報処理の目的は、身の周りの物体を認識すること。周りの物体はたいていの 場合、3次元的な物体である。もっとも効率的に認識が行われる視点を、「典型的見え」と呼ぼう。これは、斜め前方向でしかも少し斜め上方向からの視点になるだろう。物体は正面に重要な情報が含まれることが多い。3次元物体の形状を推定するためには、正面に加えて、側面や上面の形状もある程度分かることが望まれる。脳内には、典型的見えに対応できるような記述が蓄えられている。したがって、典型的見えであれば、物体がなんであるかという認識は迅速に行える。

アフリカの大地で、目の前に大きな動物を見つけたとしよう。ヒョウかもしれないしライオンかもしれない。まずはこの状況が危険かどうかを察知しなければならない。なんという動物かを認識するよりも優先して、その動物がこちらに向かってくるのかどうかを判断しなければいけない。生存のためには、物体の向きについての判断が迅速で正確であったほうが重要だということ。典型的見えであれば、物体が何であるかという認識を迅速に行える。

現実世界には雑音が多く、厳密な解を求めようとすると、いつまでたっても解が得られないことになりかねない。身の周りの矛盾を含むさまざま情報から、瞬時に自分の生存に必要な情報は何かを判断し、即剤に次の行動を取ることが要求される。人間はあらゆる情報を、精査することなく、瞬時につじつま合わせしながら生きぬくような仕組みを備えている。これまで生きてきた経験(進化の過程)に基づいて、情報を無視したり改変したりすることを無意識のうちに実行し、生き延びてきたのだ。


◆ 『つじつまを合わせたがる脳』 横澤一彦、岩波科学ライブラリー、2017/1

    HOME      読書ノートIndex     ≪≪ 前の読書ノートへ    次の読書ノートへ ≫≫