■『黒船』 日本初の英語辞書の編纂 (2014.3.19)
いつものように著者・吉村明さんの精緻な文章力が素晴らしい。幕末に活躍したオランダ通詞・堀達之助の生涯を描いて、まるで映画をみるような臨場感あふれる筆致に圧倒される。堀達之助は、日本初の本格的な英語辞書と言われる『英和対訳袖珍辞書』を編纂し1853年に刊行した。
当時、英語辞書としてはすでに、本木庄左衛門らの「諳厄利亜語林大成」があったが、出来上がってから、もう50年も経っていた。収められた6千語に近い単語に附された日本語による発音は英語とほど遠いもので、オランダ訛りが強く出されているものであった。
『英和対訳袖珍辞書』は約3万5千語を収録している。1段19行、二段組で全1冊。本文953ページである。横長の体裁から「枕」と呼ばれたそうだ。中国から輸入した洋紙を使用し、表紙はモロッコ皮であった。英活字はオランダ政府から幕府に寄贈されていた鉛製を使った。日本語の訳語と片仮名は手彫りの木版である。200部印刷され、2両で頒布されたが、得がたい辞書としての評価が高まり、遂には20両という値までついたという。
堀達之助は、オランダ大通詞・中山作三郎を父として、文政6年(1823)に生まれたが、幼くして同じく通詞の堀儀左衞門の養子となった。達之助はオランダ語の習得に熱中するかたわら、そのころようやく関心をもたれはじめた英語に興味をいだき、独学で英文を読むことにつとめた。オランダ通詞は、長崎にいてオランダ商館との間の通訳、オランダ書の和訳と日本文のオランダ訳を仕事としていた。異国船渡来にそなえて浦賀に出張することも義務づけられていた。
嘉永6年(1853)6月。ぺりーの率いる4隻の黒船が来航し幕府に開国を迫る。達之助はオランダ通詞として、奉行を助けペリー艦隊とオランダ語で交渉する。初来航したペリー艦隊を迎えて、首席通詞として働いた頃が、達之助の生涯の頂点だったようだ。交渉を重ね、なんとか通商要求を受け取り、次の機会を約束することになる。次の年の嘉永7年 正月、ペリーは10隻のアメリカ艦隊を率いて再来。6月には日米和親条約の締結にいたった。
その後、ドイツ商人の提出した書類の扱いをとがめられ、奉行所に呼び出される。商人が差し出したのは、下田奉行宛の請願書――ドイツに諸外国と同じ権益を与えて欲しいというもの。信任状ももたぬ一介の商人が作成した書状で外交上なんの意味もないものだ、達之助はそう判断した。奉行のとがめは、請願書をなぜ手もとにとどめたままにしておいたか、というもの。どのようなものであれ、異国の者の提出した書状を自分一存でとどめるとは由々しきことだと。達之助の行為について協議が繰り返され、通詞として許しがたい行為と考えられた。ついに入牢を命じられる。
達之助は、ドイツ商人事件で思わぬ嫌疑をうけて4年もの長い牢獄生活を強いられる。ようやく、達之助の語学力を惜しんだ蕃書調所の古賀謹一郎に救い出される。蕃書調所では、欧米の軍事科学書を翻訳していたが、今やオランダ語の必要性は色褪せ、英語が不可欠のものとなっていた。古賀はかねがね、基礎となる英語辞書の必要性を痛感していたのである。
ただちに古賀は、英語辞書編纂を達之助に指名する。達之助は英蘭辞書のひとつを選び、オランダの言語を日本語に置き換えることをもくろむ。編纂作業に精力的に取り組み、1年8カ月の短い期間で脱稿に至った。辞書名は「英和対訳袖珍辞書」となった。
◆『黒船』 吉村昭、中公文庫、1994/6
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