■ マルティヌー 《ピアノ四重奏曲》 (2001.11.25)

アーティス アンサンブル シュトゥットガルトの日本公演を聞いた。2001年11月21日(水)、場所は浜離宮朝日ホール。主催はKIPPO(中川菊保)とあった。アーティス アンサンブル シュトゥットガルトはピアニストの渥美ひろ子と、シュトゥットガルト放送交響楽団のメンバからなる弦楽アンサンブル。

プログラムは下記の3曲。
(1)ヴォルフガング・モーツァルト 《ピアノ四重奏曲ト短調》KV.478
(2)ボフスラフ・マルティヌー《ピアノ四重奏曲》(1942)
(3)ヨハネス・ブラームス《ピアノ四重奏曲ト短調》

このうち、(2)マルティヌーのピアノ四重曲は初見参である。作曲家マルティヌーを音楽辞典で見ると、交響曲からはじまって室内楽まで多彩な曲が並んでいる。レパートリーの広い作曲家であることがわかった。パリで現代音楽の洗礼を受けたとある。

演奏会当日、アーティス アンサンブル シュトゥットガルトの演奏するマルティヌーの曲のCDを入手することができたので、もう一度聞いてみよう。


第1楽章は、緊張感のあるダイナミックレンジの広い曲想。バルトークを思わせる響きが時折聞こえる。そして、かすかな不安が感じられる。切れ味の鋭い演奏。
第2楽章は、弦楽のみの静かな演奏で始まる。澄んだ静謐な響きが続く。わずかに終結部にピアノが顔を出す。この楽章は慰めの音楽か。
第3楽章は、一転してピアノが主導権を取る。第2楽章とは対照的に、明るい希望を感じさせる響き。中間部では弦楽がせわしなく動くが、ピアノがどっしりとサポート。終わりに希望の光が戻ってクライマックスとなる。

CDに挟み込まれたブックレットの解説を見ると、このピアノ四重奏曲は、1942年ジャマイカでの作曲とある。どうしても時代背景を考えないわけにはいかない。既に前年にマルティヌーはパリからアメリカに亡命していたはずである。ナチの侵攻が広がり、真珠湾攻撃から日米対戦の火蓋も切られている。騒然たる世相、未来への不安感が覆っている。無意識にも作曲家はなんらかのメッセージを込めたはずである。アーティス アンサンブル シュトゥットガルトの演奏はまったく純音楽的なものである。


アーティス アンサンブル シュトゥットガルト
1996年、シュトゥットガルトにて結成され、1997年同地でデビュー。シュトゥットガルト放送交響楽団に属する3人の弦楽奏者――ドイツ人ヴァイオリニスト、シュテファン・ボルンショイヤー、ハンガリー系アメリカ人であるヴィオラ奏者、ポール・ペシュティ、そしてモルダヴィア(旧ソ連領)出身のチェリスト、マリン・スメシュノイ――に、日本人ピアニスト渥美ひろ子を擁する。4カ国にわたる国際色豊かなレパートリーも、古典から現代に至るまで幅広い。

渥美ひろ子(ピアノ)
東京に生まれる。東京芸術大学、同大学院修了後、1988年シュトゥットガルト国立音楽大学修士課程、さらに1992年ハイデルベルグ国立音楽大学ソリスト養成コースを卒業。また、アメリカ、クリーブランドにおける"ロベール・カサドシュ"国際ピアノコンクール、ドイツのクーラウ国際コンクール等に入賞。室内楽を中心に、ドイツ国内外にて演奏活動。大野和士とは東京芸術大学の同期生。

ボフスラフ・マルティヌー (Bohuslav Martinu)
1890年チェコに生まれる。1959年スイスで死す。プラハ音楽院で、ヴァイオリンを学ぶ。作曲は独学であったが、プラハでスークに師事。23年パリに出てルーセルに学ぶ。大規模な管弦楽曲や協奏曲を作曲、さらにオペラ、バレー、室内楽の分野でも多数の作品を書いた。ターリッヒ、ミュンシュ、アンセルメ、ザッハー、クーセヴィッキーなどが取り上げて演奏。1940年ナチの手を逃れてパリを去り、翌年アメリカに渡る。クーセヴィッキーの委嘱による《第1》(1943)をはじめ4曲の交響曲、エルマンのための《ヴァイオリン協奏曲》(1943)などを作曲。46年プラハ音楽院の作曲家教授として帰国。48年再び渡米して52年にアメリカ市民権を獲得。57年スイスに移る。晩年にも多くの大作を残している。作風は新古典主義的であるが、個々の作品にはチェコスロヴァキアの民族性、印象主義、ジャズの影響が多様な現れ方をしている。(柴田南雄)『標準音楽辞典』から要約。

『第三帝国と音楽家たち』長木誠司著、音楽之友社、1998/5 (P.174)から。
1942年、ナチはレジスタンスをかくまった報復として、プラハ近郊の村リディツィエを殲滅する。172名の男性は皆殺しにされ、女性は殺されるか収容所送りとなって、いずれにしても大部分が亡くなった。そして、この殲滅のあと、リディツィエは地図上から抹消された。リディツィエの悲劇は、イギリスがチェコの反独感情を煽ろうとして仕組んだという説が強いが、驚くべきことにナチが世界に向けて認めたため広く知られることとなり。イギリスの思惑通り、ナチ非難の材料となった。
すでにアメリカ合衆国に亡命していたチェコの作曲家ボフスラフ・マルティヌーが、1943年に作曲したオーケストラ作品《リディツィエ追悼》は、この悲劇を正面から扱ったものである。




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