■ シノーポリの訃報 (2001.5.3)

シノーポリの訃報を聞いた。はじめは口コミだったので、まさかそんな年ではないだろうと思ったが、後から心臓発作であることを知った(*1)。享年54歳。確かに指揮者としてはこれからという年齢だ。バイロイトで《ニーベルングの指環》を昨年指揮したと聞いたばかり。マーラー交響曲全集にしても完成途上だったはずだ。「無念!」と思う間もない突然死だったか。

風貌からしてカリスマ的な匂いを発していた。しかし一方で精神医学のドクターと言っても通じることは間違いない。浅田彰の追悼文(*2)によれば、「ジュゼッペ・シノーポリ氏は、いわばマーラーとフロイトを一身に兼ねたような存在だった」とある。ずばり核心をついたことばである。

マーラーの録音は第5番からスタートしたと記憶しているのだが、残念ながら手元にCDが見つからない。ささやかな追悼の儀式として、第1番《巨人》を聞いてみた。オーケストラはフィルハーモニア管弦楽団。録音は1989年2月ロンドン。シノーポリ42歳である。バイロイトにもデビューし、まさにこれから世界のトップレベルへと進撃を開始した時期である。

マーラー指揮者としての実力を再認識したCDである。非常に透明で分析力の高い演奏。基本的なテンポはゆったりしていて、ていねいな愛情をもった表現を感じさせる。第2楽章はガラスのリズムとでも。オーケストラも優秀、録音も素晴らしい。やはり全集を期待したかった。

<年表>
◆1946年 ヴェネツィアに生まれる。
◆1965年(19歳) マルチェッロ音楽院にて作曲を学ぶ。
◆1971年(25歳) パドヴァ大学を卒業。精神医学と人類学の博士号を取得。ドイツのダルムシュタットでブルーノ・マデルナ(イタリアの21世紀の作曲家))とカールハインツ・シュトックハウゼンに師事。ウィーンのハンス・スワロフスキーのもとで指揮法も習得。
◆1975年(29歳) ヴェネツィアで「ブルーノ・マデルナ・アンサンブル」を結成し指揮者として活動を始めた。
◆1978年(32歳) ヴェネツィアで《アイーダ》で大成功。つづいて《トスカ》、《シモン・ボッカネグラ》でも絶賛される。
◆1980年(34歳) ウィーン国立歌劇場のヴェルディ《アッティラ》でセンセーショナルな成功。ベルリン・ドイツ・オペラ 《マクベス》が大きな話題。
◆1981年(35歳) ミュンヘンのバイエルン国立歌劇場で自作のオペラ《ルー・サロメ》を初演。
◆1984年(38歳) フィルハーモニア管弦楽団の首席指揮者(87年1月からは音楽監督)に就任。
◆1985年(39歳) 《タンホイザー》を指揮してバイロイト音楽祭にデビュー。(1986年、1987年、1989年にも指揮)。マーラー交響曲の録音を開始 (第5番を録音)。
◆1990年(44歳) バイロイト音楽祭で《さまよえるオランダ人》を指揮。(1991年、1992年、1993年にも指揮)
◆1992年(46歳) ドレスデン歌劇場管弦楽団の首席指揮者
◆1994年(48歳) バイロイト音楽祭で《パルシファル》を指揮。(1995年、1996年、1997年、1998年、1999年にも指揮)。
◆2000年(53歳) バイロイト音楽祭で《ニーベルングの指環》を指揮。
◆2001年(54歳) ベルリンにて客死

(*1) 指揮者のシノーポリ氏、演奏中に倒れ死去
ドイツ・ザクセン州立のドレスデン歌劇場管弦楽団の首席指揮者であるジュゼッペ・シノーポリ氏が20日夜、ベルリンのドイツ・オペラでベルディの歌劇「アイーダ」を演奏途中に心筋梗塞を起こして倒れ、死去した。54歳だった。
今回の演奏は、昨年12月に死去したドイツ・オペラ総監督ゲッツ・フリードリヒ氏を悼み、約10年ぶりのベルリン公演だった。アイーダの第3幕の中ほどで意識不明になり、指揮台から崩れ落ちた。(朝日新聞2001.4.21)


(*2) 知性の裏に熱い情念 シノーポリ氏を悼む 浅田彰 (京大助教授)
マーラーがフロイトのカウンセリングを受けたことがあるのは有名な話だが、20日、オペラの指揮中に急逝したジュゼッペ・シノーポリ氏は、いわばマーラーとフロイトを一身に兼ねたような存在だった。

このイタリア生まれのユダヤ人の中には、あふれんばかりの歌をたたえた巨大な自我と、そのような自我を冷徹に分析してやまないもうひとつの自我とが、きわどい緊張をはらんで同居していたのだ。彼の指揮棒の下では、プッチーニのオペラにおいてさえ人間の深奥に走る亀裂が露呈され、ウェーベルンの12音音楽においてさえロマン派の豊麗な歌の残響が鳴り渡った。そして、あの忘れがたいマーラー。あれほど歌に満ちてしかも精密なマーラーを、私はほかに聴いたことがない。

こうした二面性が十分に理解されなかったためか、シノーポリ氏は「知性派」として敬遠されることもあった。もちろん、若いころ精神医学を修め、近年も考古学に打ち込んで古代エジプトの象形文字を読み書きするまでになったシノーポリ氏ほど知性的な指揮者は少ない。

だが、音楽家が知識人であるのは当然のこと。音楽家に職人に徹することを要求する消費社会の要求に抗して、そんな当然のあり方を貫いたまでだ。さらに強調したいのは、そのような「知性派」のマスクの下に、実は熱い情念のマグマがたぎっていたことである。ステージでそれを爆発させた後、オペラの幕あいですら疲労困憊してソファに横たわる彼の姿を何度も見てきた私は、劇的な死の知らせに驚きながら、実は「来るべきものが来た」という感慨も抱いたのだった。

バイロイトでのワーグナー。ドレスデンでのR・シュトラウス。唐突に断ち切られた多くの計画を思うと残念でならない。だが、シノーポリ氏の54年の生涯は常人何倍も充実したものだったのだ。私としては、この巨大な彗星と遭遇しえた僥倖に感謝し、残されたすばらしい録音の数々に、この夜、あらためて耳を澄ませたいと思う。(朝日新聞2001.4.23)



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