■ 『銀河鉄道の父』 天才の父は大変だ!  (2018.7.13)







本書はフィクション。主人公は、宮沢賢治の父・政次郎(まさじろう)である。政次郎の豊かな人格的包容力によって賢治が生まれ育ったことがよくわかる。賢治は思っていた。政次郎ほど大きな存在はなかったと。自分の命の恩人であり保護者であり教師であり、金主であり上司であり抑圧者であり好敵手であり、貢献者でありそれらすべてであることにおいて政次郎は手をぬくことをしなかった。



政次郎の賢治への愛情は献身的である。賢治は7歳のとき、高熱、血便、医者は赤痢の診断。「賢治の面倒は私が見る」と。万が一のことがあったら、政次郎は、自ら行李を背負って、隔離病院の赤痢患者の病室へと。泊まりこみで夜通し賢治の面倒を見る。腹を温めるためには、こんにゃくへ鉄瓶の湯をそそぎ布でくるみ。賢治の布団に差し入れて腹の上に置いてやる。

賢治は小学校を卒業する。修身、国語、算術、すべて甲の成績。盛岡中学へと進む。第1年次修了で143人中、53番だった。博物(鉱物)はよかったが、算術が足をひっぱった。1914年3月、賢治は盛岡中学を卒業した。卒業時は下位3割に沈んだ。失敗の5年間だった。賢治は鉱物学がやりたいんだ、という。政次郎は、「進学しろ」若いうち、したいことは存分にしろと、進学をうながす。賢治は、短期間に集中力を発揮し、主席で盛岡高等農林学校に合格する。

政次郎は、賢治の健康について、心配の種がつきない。賢治からの手紙には、近ごろ胃の近くが痛むので、肋膜かと思い岩手病院に行った。左の方が悪いよう 水がたまっている等の診断。政次郎は結核を疑う。賢治は学校(研究生)をやめる。大正7年7月のこと。盛岡を引き払い、家事手伝いの身となった。

大正10年、賢治は普段着のまま家をとびだし、東京の国柱会館へ。小さな出版社でガリ切りを始めるが、生活は困窮を極める。そんななかで、400字づめの原稿用紙を畳の上にどさりと置いて、万年筆をとった。妹トシの病気との報に盛岡にもどる。そのとき、賢治は大きなトランクを持って帰った。400字詰めの原稿用紙がさ1千枚は入っているだろうか。
ほとんどが走り書きだった、ぐしゃぐしゃと上から消した箇所も多い。短篇のひとつ 『風の又三郎』。賢治は満足しなかった。紙の上に定着し得たイメージよりも、し得ぬまま霧散したイメージのほうが圧倒的に大きかったのだ。書けたから書いた しかし結果として書いたものがなぜ 童話だったのか、大人の世界からの逃避だったのか。

賢治はもう26歳。世わたりの才がなく、強い性格がない、健康な体がない。自分は父にはなれない。それでも父になりたいなら、もはやひとつの方法しかない。子供のかわりに童話を生むことだ。原稿用紙をひろげ、万年筆をとり、脳内のイメージを追いかけているときだけは自分は父親なのである。物語のなかの風のそよぎも、干したいちじくも、トルコからの旅人も……すきとおった地平線もすべてが自分の子供なのだ。「岩手毎日新聞」には詩と童話が掲載された。政次郎は問う「イーハトヴとはどこにあるのかね」。

『注文の多い料理店』も売れなかった。賢治は原稿を書いている。弟・清六によれば、開墾、竹やぶを切りひらいて畑にするんだと。夜はレコードか、兄さんはバッハとかベートーベンのリズムを詩に取り入れる気なのです。兄さん自身がセロを弾いて聞かせたりしている。生活は、ひやめしに汁を、たくわんを、切らずにそのまま。過酷な肉体労働をみずからに課し、あらゆる芸術に深入りしようとする。

賢治は体調をくずす。ぜろぜろという、砂をこすりつけるような雑音を含んでいた。花巻共立病院に4日間入院し診断をうける。結核菌は出なかった。が、熱は下がらず、呼吸時の喘鳴は消えず、のどが枯れ枝のように細くなった。羅須地人協会の活動もつづけた。エックス線写真を撮ってもらうと、病名は、両側肺浸潤。要するにほぼ結核だ。賢治は回復しなかった。初冬がいきなり厳冬になった。衰弱はとまらなかった。これ以上はもうやせない。激しい咳は始まると5分も10分もとまらなかった。痰はほとんどが血だった。

気分のいいときはある。ふとんの上に正座して黒い革装の手のひらにおさまる大きさの手帳をひざに置くのだった。手帳はひらくと両手のサイズになる。判読はむずかしかった。一字一字かたちがくずれ、縦横の線がぐにゃぐにゃで、ことにひらがなあミミズがあばれるようなくずし字なのだ。―マケズ ―マケズなどの文句がみとめられた。

◆ 『銀河鉄道の父』 門井慶喜、講談社、2017/9
◆ 宮沢賢治関連: 『チェロと宮沢賢治』 『文人悪食』

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