■『馬の世界史』 戦場に馬が登場して世界の歴史が動いた  (2013.12.10)




馬は人間社会のなかで、多種多様な役割を担わされてきた。太古には狩猟の対象だった。やがて車を引き、人を乗せ、人間の世界に深く入りこんだ。馬の大量活用と品種改良は、歴史と表裏一体をなすものである。人が馬を乗りこなさなかったら、歴史はもっと緩やかに流れていただろう、と著者はいう。

馬は世界史をどのように変えたのか、これが本書の主題である。馬が戦場に登場して以来、戦争のやり方が変わり歴史を動かしてきたのは事実であろう。しかし、近代16世紀の大航海時代になると、戦場や交易ルートが海上へと広がり、馬の活躍場面が失われてきた。日本においても、長篠の合戦で織田信長が武田の騎馬軍団を打ち破り、鉄砲を効果的に利用した戦闘が主役となってきたのも16世紀である。

馬の家畜化が始まったのは前4000年頃であるという。ウクライナ地方で出土した遺跡の馬骨からわかる。前二千年紀前半の西アジアでは、戦車とよびうる車両形態ができあがっていた。シリアなどから出土する印章の図柄のなかに、馬で牽引する戦車が登場する。エジプトの壁画にも馬が戦車を引く様子を描いたものがある。戦車は世界史に登場した最初の複雑な武器だ。馬と戦車は、当時の環境を大きく変えてしまった。そして、人間の精神の底流に、「速度」という新しい観念を刻み込んだ。馬に乗れば、より速く、より遠くまで移動することができるのだから。馬と戦車の出現は、世界史の速度をも速めることになったのだ。

前二千年紀のオリエント世界では、馬と戦車の出現で、歴史がめまぐるしく動き出していた。アッシリアは、鉄製の武器と戦車を装備し、さらに騎馬軍団をも編制し強力な軍事力を誇った。バビロニア、イラン高原まで征服し前7世紀にはエジプトまでも版図におさめる。その後、ペルシア帝国が周辺地域を圧倒する。騎馬の普及は、平時にも恩恵をもたらすものだった。道路建設によって通信網が整備され、駅伝制が情報伝達の長足の進歩をもたらした。

ローマとカルタゴの間には3度におよぶポエニ戦争がくり返された。前半は、圧倒的な機動力でハンニバルがローマ軍を包囲し、カルタゴ側だ優勢であった。しかし騎兵の機動力を活用したローマが最後に勝利をおさめる。その後、ローマは地中海世界全域を支配下におさめ全盛時代を築く。古代地中海世界は、馬を活用する風土にこそ恵まれなかったが、海を大いに活用して海域世界をいち早く実現したのだ。4世紀後半になると、ゲルマン民族の大移動が起きる。アジア系の遊牧民フン族が圧力の正体である。騎馬遊牧民の襲撃は、半農半牧のゲルマン人にとっても脅威であった。5世紀半ば、アッティラに率いられたフン族は、ライン川を越えガリアにまで侵入する。アッティラが急死すると、フン帝国は急速に瓦解した。(フン族と匈奴は同族だと考えられている)

中央ユーラシアの騎馬遊牧民は離合集散しながら西に向かって進んだ。シルクロードを通じてさまざまな人々、物資、情報が交錯し、戦争も起きる。そのような歴史の縁の下の主役を務めたのはまさしく馬であった。騎馬遊牧民の活動は、世界史の流れを確実に変えたのだ。10世紀、東方ユーラシアには、モンゴル高原にキタイとよばれる遊牧民が現れた(契丹として記録されている)。耶律阿保機は部族を統合して王を名乗り遼と称する。遼は渤海を滅ぼし、中国の北辺にもせまる。金は女真族を中核にした政権であったが、そのなかには多数のキタイ人を含んでいた。彼らは最精鋭の機動部隊をなし、数多くの軍馬をもっていた。

このなかから、チンギス・ハーンが現れ遊牧民連合体を大モンゴル国と命名する。精鋭騎馬軍団のキタイ族はモンゴルに組み入れられる。モンゴル軍はすべて騎兵によって構成される、高度に組織化された編隊であり、厳格な規律に服していた。騎兵の軍馬は、小型でずんぐりしていたが、がまん強く様々な困難にもひるまなかった。戦闘の場面にあって、モンゴル軍はきわめて統制された騎乗法で交戦した。モンゴル帝国は世界史にさまざまな面で広く深い痕跡を残した。とりわけ交易や流通のあり方において、近代資本主義の世界システムにいたる道を準備したといえるだろう。モンゴルは「陸と騎射の時代」の頂点にたっていたのだ。

大航海時代には、人も物も外海にくり出し、遠隔地との交流が盛んになった。陸上で馬が果たした役割は、海上の船によって担われるようになる。ヨーロッパでは軍事革命が進み、戦闘で火器が重視されるようになる。歩兵が戦力の主役になり、騎兵の減少をもたらし、馬の活躍馬面は失われていったのである。


◆ 『馬の世界史』 本村凌二、中公文庫、2013/11

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