■ 『悪文』 裏返し文章読本 (2007.3.12)
「裏返し文章読本」という副題が附いている。原著は1995年/5月の刊行、すでに10年を超えている。文章からいっさいの言語技術的な要素を排除することはできない、文章には何らかの書き手の工夫――方法論があったはず。表現上のくふうなしに文章は書けない、というのが著者の立場。
この種の文章読本はそれ自体の文章力が問われるはずだが、文章読本がすぐれた文章で書かれたためしがないという。その点、この文庫本は類書と一線を画すのではないか。著者の語り口は柔軟であるが、ずばり平易な言葉で本質をついている。
あえて漢字の多用を避けているようでもあり、わかりやすい言葉をつかっている。たとえば、本書のテーマである「悪文」について、「一読してすっと頭に入ってこないのが悪文だ」と言い切ってしまう。すぐれた文章だろう。
また、内容が極度に低劣であれば、それだけで充分に「悪文」の資格をもつという。ことばづかいに一つの誤りもなく、巧みな表現を駆使して、効果的に構成された文章であっても、それだけですぐれた文章だとするわけにはいかない。何が書いてあるかがもっとも肝要なのだと。
文章読本の冒頭には、「読み手の立場に立って書くように」とあるのが普通だ。読者のイメージを書く前に頭の中に持つことと説くわけだ。使う言葉の選び方もここに関わってくる。誰が読むのかをつねに念頭におきながら書くこと。しかも、たいていの読み手は書き手よりえらいと考えたほうがいい、と著者はいう。
読み手のことを頭におき、こういう書き方ではたしてわかってくれるだろうか、と考えるようになれば、それだけでずいぶん違うという。他人が読むというこを考えて文書を書く習慣がつけば、最低限の目的ははたすからだ。わかりにくさは自分で気づかないかぎり、防ぐことはできない。
こんな警句も耳に残った――「辞書なしに文章を書くのは、包丁を持たない料理人にたとえられる」。
◆ 『悪文 裏返し文章読本』 中村明著、ちくま学芸文庫、2007/1
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