■ 『乱心の曠野』 甘粕正彦って誰なんだ (2008.10.27)
戦後生まれにとって「アマカス」と聞いても何のイメージも喚起されない。映画「ラストエンペラー」で、坂本龍一が演じた甘粕正彦の印象が独特ではなかったか。いかにも暗黒世界の住人。社会主義者を虐殺した冷酷非情な元憲兵という設定であった。
この本を手にした理由は、もっぱら著者・佐野眞一への信頼からである。綿密な取材をバックにした重量感のある数々のノンフィクションのファンであった。著者はこの評伝を教養小説として構想したという。大正、昭和という時代に翻弄されたひとりの人間の魂の成長の物語として執筆したと。充実した読後感に期待を裏切られることはなかった。
世に「甘粕事件」と言われるのは、関東大震災直後の瓦礫のなかの大正12(1923)年9月16日、憲兵大尉の甘粕正彦が社会主義者・大杉栄を殺害したとされる事件のこと。これが、甘粕の人生の暗転劇のはじまりだった。残忍なイメージを付着された甘粕は、これ以降主義者殺し≠フ汚名を生涯にわたってひきずる悲劇の人生を歩むことになった。
この事件の主犯として甘粕は軍法会議で懲役10年の実刑判決を受ける。しかし、甘粕が軍のスケープゴートになったという見方は、いまやほぼ定説となっている。彼は上官を守り、部下を庇って、自ら捕縛される道を選んだのではないか。
甘粕が再び歴史のなかに姿を現すのは、突然勃発した満州事変の直後だった。昭和6(1931)年9月18日の柳条湖に始まった満州事変は、軍人たちが仕掛けた大掛かりな謀略劇だった。甘粕は溥儀を連行し満州建国に導く。関東軍にはさしさわりがありすぎて出来ない特殊任務を、甘粕は率先して遂行する。満州事変を拡大させ、その後15年にわたる泥沼の日中戦争に引きずり込む一つの端緒をつくった影の主役であった。
「満州の昼は関東軍が支配し、満州の夜は甘粕が支配する」とまで言われた。満州に現れる以前の甘粕と、満州の甘粕はまったくの別人だった。甘粕にとって謀略の大地の満州は、初めて生を燃焼できる乱心の曠野だったのだろうか。
理事長に就いた満映は、甘粕にとって、自分の理想を実現する小さな王国だったのだろう。抜群の事務処理能力を発揮する。機構改革を行い、合理主義とスピードで事を運こび、赤字だった経営を黒字に転化する。彼には不思議な魅力があったという――どんな人物でも惹きつけてしまう。人との信義は絶対に裏切らないパーソナリティーでもあった。
昭和20年8月9日、ソ連軍が国境線を越えて満州への侵入を開始。甘粕は翌々日の8月20日、青酸カリをあおり54歳の生涯を自ら絶つ。甘粕は自分の運命を決めた大杉事件の秘密を曠野に埋め墓場まで持っていってしまったのだろうか。
◆『甘粕正彦 乱心の曠野』 佐野眞一、新潮社、2008/5
HOME | 読書ノートIndex | ≪≪ 前の読書ノートへ | 次の読書ノートへ ≫≫ |