■ 『チェロと宮沢賢治 ゴーシュ余聞』 ゴーシュの声が聞こえる (2016.3.23)
いま、花巻の宮沢賢治記念館には、賢治の愛用したチェロがガラスケースの中に展示されている。チェロと並んで四本刃のクワも置かれている。チェロと農具は、羅須地人協会(らすちじんきょうかい)時代の賢治を象徴するものだ。
羅須地人協会とは、1926年(大正15年)に宮沢賢治(1896-1933)が花巻に設立した私塾。活動したのは1926年8月から翌年3月までの約7カ月である。「農民になれ」との教えを自ら実践しようとし、新しい農村を建設するとの意気込みが賢治にはあった。昼間は農作業にいそしみ、夜には農民たちを集め農業技術などを教えた。レコードの鑑賞会や童話の朗読会も開いた。
さらに賢治は農民オーケストラを夢見ていたのだろうか、自らもチェロを購入して練習に励んだ。レーニンを読んだり土壌学の勉強に疲れたとき、チェロを弾いてレコードを聴いた。未明に起きて一日働いたあと、夜中の1時、2時ごろまでチェロやオルガンを弾いた。
賢治のチェロの胴の中には自筆で「1926.K.M.」と署名が入っている。ラベルから鈴木バイオリン製の6号とわかる。当時の価格表によれば170円だった。給料の数カ月分にも相当する最高級品だ。中古で安く買ったのだろうか。
賢治は『西洋音楽講座』のヴィオロン・セロ科を教材として熱心にチェロに取り組む。そして本格的にチェロを勉強するために上京する。詩人尾崎喜八を訪ね、チェロの教師として、当時結成されたばかりの新交響楽団(現N響)のトロンボーン奏者でチェロもたしなんだ大津三郎を紹介される。レッスンのはじめは弓を弾くだけ。ついで弦をはじく時、2本の弦にかからぬように指を直角に持っていく練習。レッスンは3日間だった。
賢治のまえに藤原嘉藤治(ふじわら・かとうじ)が現れ、生活に音楽の存在が今まで以上に大きな役割を果たすようになる。嘉藤治は花巻高等女学校の音楽教師でチェロを弾いた。当時は花巻クワルテットや音楽研究会など地域に密着した音楽活動をしていた。賢治は、仕事を終わってから練習に励む人々に心打たれて、しばしば練習場を訪れたという。
病に倒れた賢治を嘉藤治が見舞う。このとき、賢治は蔵にしまっていた自分の鈴木バイオリン製最高級チェロを、嘉藤治の穴あきチェロと取り替えた。自らのチェロに託すものがあったのだろう。それから1年後の1933年9月21日、賢治は37歳の生涯を閉じた。宮沢家ではチェロを蔵にしまっていたが、1945年8月10日の空襲によって焼けてしまった。
空襲で焼けたのは嘉藤治の穴あきチェロだ。賢治のチェロは、嘉藤治とともに盛岡で晴れの舞台に上がり、賢治の死後は東京に連れて行かれた。いまチェロは、本来の持ち主の実家に戻った。50回忌にあたる1982(昭和57)年に開館した宮沢賢治記念館に展示されている。
このチェロを賢治が弾いていたのは羅須地人協会時代の2年間だった。そして『セロ弾きのゴーシュ』へと結晶したのだ。中学時代からの友人阿部孝は「チェロを弾く賢治」を次のように描写している。「賢治は、野中の一軒家のあばら屋に一人籠もって、食うや食わずの生活をしながら、毎日チェロを弾いていた。……
実はチェロの弦を弓でこすって、ぎいん、ぎいん、とおぼつかない音を出すのが精一杯で、それだけでひとり悦に入っていたのである」と。
◆ 『チェロと宮沢賢治 ゴーシュ余聞』 横田庄一郎、音楽之友社、1998/7
岩波現代文庫として再刊されている(2016/4)