■ 『西方の音』 忘れられない五味康祐のことば   (2016.4.19)   ⇒ 五味康祐のオーディオ装置



クラシック音楽ファン、その中でもオーディオ愛好者にとって、五味康祐の名前は忘れられないものだ。この五味の著作は、1969年にハードカバー(箱入りだった)で刊行されたものだが、つい先頃(2016/4)文庫化された。これを機会に約半世紀ぶりに再読してみた。

いつもながら人生をかけて音楽を聴くような真摯な姿勢に印象が強い。とくに英国製スピーカー「タンノイ」への熱愛ぶりはなんと言ったらいいのか。この熱波は、数十年を経てさらに広がっている様相だ。五味の熱愛したあの「オートグラフ」は、ビンテージ品では千万円もの高値を呼んでいるとか。

五味康祐は、1980年に鬼籍に入っている。享年59歳。その数年後に、デジタル技術による初めてのオーディオ・メディアとしてCDが登場してきた。五味が生きていればCDに対してどんな評価を下したのだろうか。非常に興味がある。もっとも低い評価――機械的な音として、辛辣な言葉を残したように思われる。


文庫本に付された新保祐司の解説によれば、そもそも、五味のデビュー作の『喪神』(芥川賞を受けた)は、ドビュッシーのピアノ曲「西風のみたもの」から着想を得たとのことだ。この曲は西風が激しく吹き荒れる様を印象主義的に描き出している。『西方の音』というのは、恐らく芥川龍之介の「西方の人」を踏まえたものだろうという。「西方の人」とはイエス・キリストのことである。「音楽には神がいる」と五味は書いているが、結局、五味がクラシック音楽を聴いていたのは「神」を求めていたのだろうと。

五味の繊細な感覚、独特なイマジネーションの真骨頂は、例えばフォーレのヴァイオリン・ソナタに聞かれる。このソナタ第1番をポベスコが弾いた英国デッカ盤ではじめて聞いたとき、五味はこう書いた。夜の海浜で貴婦人に抱擁される自身をはっきり幻覚させてくれた。彼女は未亡人だったらしい。一人の寂しく生きた婦人がここにいると、……フォーレの音楽にのって浮かび出した光景だという。

モーツァルトについても多くのページが割かれている。最初期のシンフォニー第1番について。8歳の作。五味は言う、今さらながらモーツァルトが神童であったのを知らされたと。年齢は芸術を判断する基準にはならない。モーツァルトが偉大なのは、後期の作品と同じものを、8歳で作っていた、という点にある。

レコード本来の役割は、その曲が鳴り出せば、あたかも実演の場所にいるような現実感を感じさせること。理論的にはレコードの音というのはただ一つ。音を変えるのは演奏者の個性でしかあり得ない。英国製も米国製もないのだ。さまざまな再生装置は、極限すればその数だけのベートーヴェンやモーツァルトの音楽をもつ。五味は、だからこそ再生装置の吟味に慎重でありたいし、より良いものを欲求するだと言う。

五味の箴言ともいえる忘れられない言葉がある。再生機械(オーディオ)が、その人の音楽コレクションを変えるのだという。一人の男がレコードを集めるとき、彼の再生装置が、おのずからレコードを選択しているのだと。彼自身の好みよりも、この機械のなす選択の方が歳月を経るにつれて、強くなる。


◆ 『西方の音 ――音楽随想』 五味康祐、中公文庫、2016/3   (『西方の音』1969年7月 新潮社刊)

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