■ 『エロイカの世紀』  近代をつくった英雄たち  (2017.7.28)







《エロイカ》とベートーヴェン、それにナポレオンと並べば、音楽ファンにはおなじみの三題噺だ。エロイカ(Eroica)はイタリア語で「英雄」の意味をもつ。18世紀後半は革命の時代だった。つづく19世紀は、ナポレオンを代表とする英雄の出現があった。これは19世紀の特異現象であったと、著者はいう。本書は、フランス革命のうねりを俯瞰するとともに、横軸にベートーヴェンの活躍をからめて、世紀の姿を立体的に描いている。ゲーテとかヘーゲルにも言及しているのだが。

ベートーヴェンは1770年12月にドイツのボンに生まれた。1827年3月に没し56年の生涯だった。生涯は18世紀と19世紀のふたつを奇しくもほぼ等分に30年づつ覆っているのだ。1800年を境界線としてヨーロッパ世界は新旧、前後の両時代に分けられる。ベートーヴェンはこの境界をみずから乗りこえ激動の世界を生き抜いた。



いくつかの革命が同時進行した。アメリカ独立革命にしても、1776年7月4日の独立宣言は長い闘いの出発点だった。合衆国誕生のニュースは、ヨーロッパに反響をもたらす。まず、1789年フランスに。バスティーユ監獄がパリ市民によって襲撃された。フランス革命とよばれる長い変革の幕あけだった。数百年にわたって成熟してきた旧制度の社会を根底から転覆させる革命。ついには、1793年のルイ16世処刑までいきつく。

フランス革命が始まった1789年、ベートーヴェンは生地ボンで18歳の青年期。モーツァルトはウィーンにあって33歳の晩年。ハイドンはオーストリアの東隣ハンガリアのエステルハージ家の御用音楽家として57歳の初老。古典楽派を代表する人々は、もういちおうの仕事をおえていた。

ナポレオンの登場。フランス革命勃発から外国勢力の干渉があった。1797年10月にフランス軍は北イタリアでオーストリア軍を撃破して、同盟軍との戦争を終結させる。電撃戦によって勝利し和約を実現した将軍こそ、ナポレオンであった。1798年には28歳のナポレオンはエジプトを攻撃を任される。ロゼッタ・ストーンの発見はこのとき。1799年ナポレオンはエジプト脱出し故国に向かう。11月にはクーデターを起こして総裁政府を打倒し新政権を樹立する。

ついに1804年2月1日パリのノートルダム大聖堂で即位式が行われ皇帝にのぼりつめる。ベートーヴェンがこのニュースをきいて、作曲中の第3シンフォニーの楽譜を床にたたきつけたという有名なエピソードが生まれた。フランス皇帝に即位してほぼ4年間ほどがナポレオンの全盛期であった。むかうところ敵がいなかった。1806年イエナでは、プロイセン軍を撃破する。首都ベルリンは無抵抗で皇帝を迎えた。

1809年には、ウィーン郊外でオーストリア正規軍を撃破して首都入城をはたす。このとき、ベートーヴェンは38歳だった。先人たちとおなじく貴族たちをパトロンとして作曲活動に従事していた。ナポレオンの進駐は都市ウィーンから貴族たちの疎開をしいた。1805年ごろを境目としてベートーヴェンの楽想が独特の展開をしめしはじめるのも、このような貴族たちの変動と関係がある。より広い鑑賞者を対象として想定せざるをえなくなったのだ。ただ、市民はまだ、認知されないあいまいな境遇にあった。

ナポレオンはフランス国家を根底から変革した。官僚を訓練し有為のものを登用する。顕著なのが法律の整備とくに民法。ナポレオンがみずから助言し指導した民法法典は、1800年から4年間、専門の法律家を起用したもの。ヨーロッパで始めて市民身分の法的な保障を実現した。私有財産の不可侵の宣言、平等で自由な権利の尊重、結婚や家族の地位を民事の領域へのとりもどし等々。ナポレオン民法典はヨーロッパばかりか日本にも近代社会の市民身分を保護し規制するものとして援用されることになった。

ナポレオンへの反抗から没落が始まった。1808年のスペイン戦争ではイギリスが立ちはだかる。ロシアもやっかいだった。1812年ロシア遠征を決意するがモスクワまで侵攻するものの冬将軍のため退却。ロシア遠征の失敗は全ヨーロッパに反ナポレオンをうながす。1814年3月31日、ついにドイツ軍を主体とする同盟軍がフランス領内に侵攻し熱戦のすえパリを陥落させた。皇帝ナポレオンを廃位。エホバ島への移動。1815年、エホバ島を脱出し、捲土重来をはかるものの、ワーテルローでイギリス軍と正面衝突し敗退する。百日天下であった。革命と戦乱の25年はここに最終的にピリオドをうった。

市民による戦争の時代は英雄が待望されていた。ベートーヴェンの第3交響曲《エロイカ》は、そうした時代にむけて発信された。フランス革命から25年にわたる変動は市民の台頭をうながす。ベートーヴェンは、1824年、詩人シラーによる一節をえらんで、第9シンフォニーを作曲する。すべての人類が兄弟になるという壮大な主題をもっている。はるかなる理想にむけて、聴衆にたいしてすべの市民が英雄としてふるまうことの合意をもとめたのであった。


◆ 『エロイカの世紀――近代をつくった英雄たち』 樺山紘一、講談社現代新書、2002/1

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