■ 司馬遼太郎 『街道をゆく』 平戸から島原へ (2012.9.26)
つい先頃、九州の西方面――平戸とか島原半島、を巡ってきたばかりである。まさに泥縄であるが、この地を歩いた司馬遼太郎の言葉を拾い出しでみようと思う。もちろん題材は膨大なシリーズの『街道をゆく』だ。
<平戸>
平戸は、古代には末羅(まつら)国と言われたそうだ。遣唐使船が博多湾を出帆したあと、大海へ出る重要な足がかりのひとつとして平戸島に寄港していた。平戸は貿易によって栄えた。室町期から戦国期、豊臣期を経て江戸初期にいたるまで、平戸の松浦の殿様は武将というよりも貿易業者であった。
ポルトガル船が平戸に入り交易を始めたのは1550年。その翌年には、フランシスコ・ザビエルが平戸を訪れ布教を開始した。イエズス会の宣教師とポルトガル商人が一体となって、「貿易をしたいなら、まず入信せよ」と九州の諸大名に説いてまわり、多くの入信者を獲得する。大名たちは生存をかけた競争をしており、常に近隣を上回る武器や火薬を欲しがった。宣教師たちはそれとの交換で神の教しえをひろめようとしたのだ。
これは、いつかはキリシタンに日本そのものが占領されてしまうのではないかという被害者意識を肥大させることになった。そして、秀吉がキリシタン弾圧を発令し、やがて徳川幕府が鎖国によってカトリックを追い出し、プロテスタントのオランダ人のみに貿易をゆるす結果につながる。
蘭、英という2つの非カトリック教国が日本に接触したのは、1600年のオランダ船リーフデ号漂着事件という偶然の機会による。ロッテルダムを出港した船隊のうち4隻が難船し、リーフデ号のみが日本に漂着したのである。乗員には、英人ウィリアム・アダムス(三浦按針)と蘭人ヤン・ヨーステンがいた。この機会をとらえたのは、政権確立前後の徳川家康であった。
1609年には平戸にオランダの商館(東インド会社)ができた。江戸幕府の鎖国方針により、ポルトガル人は長崎から追放され、1641年にオランダ商館が出島に移った。
◆ 『街道をゆく11<新装版>肥前の諸街道』 司馬遼太郎、朝日文庫・新装版、2008/10
<島原>
島原の乱の本質は宗教一揆ではなかった。乱のあと幕府が松倉の政治を調べたときあきらかになったはずである。松倉勝家が、切腹ではなく、打首になったことであきらかと、司馬遼太郎はいう。
日本史のなかで、松倉重政という人物ほど忌むべき存在はすくない。重政は自己の利益のためには獰猛なほどの勇猛心を発揮する男であった。重政は島原にあること14年、三代将軍の年の11月に死んだ。その後、勝家が継いだ。この男が、空前絶後といえるほどに領民を搾った。領民として一揆に立ちあがるのが当然であった。
重政が豹変するのは、参勤交代で江戸に伺候し家光に謁したとき――なにを手ぬるいことをしておるのか、とはげしく叱責されてからであるという。
豹変と大弾圧も保身のためなのである。人智でもって考えられるかぎりの残忍な方法をつぎつぎに案出して人を殺しはじめた。
針刺し責め、硫黄責め、子責め、温泉地獄責め、木馬責め、竹の鋸による斬首、天背
一揆軍には、奇蹟と予言能力をもったカリスマの存在が必要である。益田四郎という少年がそれである。ついには、四郎をいだき、城にこもる。その原城はかつて松倉重政が地上構造物の石垣もすべてとりはずして島原城の築城につかってしまっていて、裸の城趾でしかなかった。
幕府はオランダ(新教国)に乞い、平戸にきていたデ・ライプ号を借り、原城を海上から砲撃させた。さらに、デ・ライプ号の砲5門を外させ、陸上から射撃した。この射撃が籠城軍にとってもっとも痛手であった。
島原ノ乱は3カ月で終わる。結局、兵糧が尽き、飢餓がひとびとの動きをにぶくし、2日にわたる幕軍の総攻撃をうけ霜柱の溶けるように崩れおちた。カトリック世界で島原ノ乱の一揆方は悲愴な存在である。かれらの死はローマに報告されることなく、正規に殉教として認定されることはなかったという。
◆ 『街道をゆく17 <新装版>島原・天草諸道』 朝日文庫、司馬遼太郎、2008/12(新装第1刷)
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